本誌二〇一〇年四月号の史跡めぐり「幻の門」で、堀口大學が作詞した応援歌「幻の門」について触れられているが、今回は詩人であり、殊にフランス語の詩の翻訳に高い評価を得て、文化勲章を受章した堀口大學の史跡を紹介したい。
大學は、明治二十五年、東京市本郷区森川町一番地で生まれる。森川町とは現在の文京区本郷六丁目一帯で、本郷通りを挟んで東大の正門がある。しかも、その時父九萬一はまだ東京帝国大学の学生であった。大学生の父から、大学の近所で生まれたため、「大學」と名付けられた。
長岡
明治二十七年、父が外交官として朝鮮に単身赴任したため、父母の故郷、新潟県長岡に移り住む。翌年、母政を亡くし、以後十八歳に至るまで長岡の地で祖母千代に育てられる。
長岡の地のどこに住んでいたかは、堀口大學研究誌『月下』創刊号に掲載された佐藤正二氏の「家はどこにあったか?」の論考に詳しく、長岡において三回の移転を経験している。初めは実家だと思われる城下外れの足軽長屋があった愛宕町に、それから町の中心の坂之上町に、翌年、同町の表通りに、最後のみ本籍三、現在のNTTビルの近くに十年間住まっていた。
阪之上尋常高等小学校、続いて県立長岡中学校に学び、この頃既に俳句に興味を持ち始めていた。
旧制長岡中学は、大學が在籍していた頃と敷地も替わることなく、現在は県立長岡高校となっている(長岡市学校町三・一四・一)。長岡駅東口を降り、正面の道(東口通り)を進むと徒歩六分で長岡高校がある。門柱は歴史を感じさせる煉瓦造りで、そこから校内に入ると、右手に大きな岩が目に入る。これは昭和四十七年に創立百年を記念して設置されたもので、ここに大學自筆による詩「母校百年」が刻まれている。
母校百年
来ては学んで巣立ちゆく
郷土の誇る俊秀を
不屈の意気に燃えつずけ
百年一日育て来た
名も長岡の高校よ
百の寿祝う学校よ
今日の目出度いこの祝賀
重ねてよ幾々度も
時空の限り
長岡高校の第二校歌も作詞している。校歌に関して言えば、市内では作曲團伊玖磨とのコンビで、神田小学校、上組小学校、附属長岡小学校の校歌を作詞している。
長岡高校から南へ徒歩六分、「学校町」の交差点に長岡市立中央図書館(学校町一・二・二)があり、ここに「堀口大學コレクション」がある。平成九年から蒐集を始め、現在総数六六一〇点になっている。同コレクションは、一冊一冊中性紙に包まれ、閉架図書として保管されているが、事前に申請すれば、閲覧は可能である。
長岡駅大手口を出て、線路に沿って北に歩くこと十五分、長岡バイパスにぶつかる手前左側に、山本五十六の墓や長岡藩重臣の墓がある長興寺(稽古町一六三六番)を目にする。
ここに正面に「累摂(魂)」、裏面に「明治二十九年十月十四日建 堀口九萬一」と刻まれた堀口家の墓がある。長岡市教育委員会が建てた説明板には「堀口大學先生の墓」として解説されている。
長岡には「長岡 堀口大學を語る会」があり、平成十八年九月から『月下』を年二回発行している。
明治四十二年、長岡中学卒業後、上京し、与謝野鉄幹の主宰する「新詩社」に入門し、詩歌の創作を始める。翌年、二度目の第一高等学校の受験に失敗し、鉄幹の永井荷風への推輓により、新詩社で知遇を得た佐藤春夫と共に慶應義塾大学文学部に入学する。以来、佐藤が大學とのことを「一卵性双生児」というくらいの親交が生涯続く。
明治四十四年、慶應を退学し、父の任地メキシコに赴く。父がフランス語を母語とするベルギー人と再婚していた影響もあって、フランス語の習得に努め、さらにフランスの詩に傾倒していく。以後、ベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニアに居住し、大正十四年退官した父と共に帰国し、東京に住む。
妙高高原
昭和十六年から静岡県興津の水口屋別荘に疎開をしていたが、昭和二十年七月、妙高市関川にある妻マサノの実家、畑井家に再疎開をした。
信越本線妙高高原駅から南西に一・五キロ、関川の信号を過ぎて右側に国天然記念物の大杉がある関川天神社がある。天神社から北国街道を挟んで左斜前に屋根が二重に交差したようなグレーの家(石田家)があるが、ここが大學疎開の地である。
天神社の森に続いて、背後に妙高山を望む妙高高原南小学校がある。大學は妙高の豊かな自然を愛し、地域の人たちと親交を深め、地域の人々の要望で当小学校の校歌を作詞しているので紹介する。
(一番) 越後信濃の国ざかい
瀬の音絶えぬ関川の
清き流れに名にし負う
歴史にしるき関所あと
(二番)
姿凛々しき妙高の
高根の風を身に受けて
われらこの地に生まれいで
爽けき中に人となる
(三番)
匂うばかりの雪晴れの
あしたの空のけざやかさ
天は瑠璃色 地は真白
われらが行くて祝うとや

妙高高原南小学校
そして、校舎前にその詞を刻んだ「関川児童の歌」の碑が建てられている。
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