今日、運動会というとグラウンドで多くの人が運動競技や遊戯を楽しむ行事として認識されているが、この言葉が使われ始めた明治十年代から二十年代は、遠足やピクニックを指すという、いささか趣の異なる使われ方をされていた。その時代、明治二十年代半ばから、陸上だけでなく水上運動会を義塾では執り行っていたのである。
草創期の陸上運動会
義塾で最初の運動会(陸上競技会)が実施されたのは、明治十九(一八八六)年六月六日、場所は三田山上の運動場、現在の西校舎前から大学院棟のある辺りで、元島原藩の馬場であった。この年、帝国大学(現東京大学)および第一高等中学校は二回目の運動会を五月二十九日に開催していることから、義塾はそれより約一週間遅れて最初の運動会を開催したことになる。その後、明治二十三、四年のころまでは、春に陸上の競技会を、秋に遠足会を行っていた。
水上運動会の開始
秋の遠足会に代わって、明治二十五年十月十六日に、体育会端艇部主催のボート競技会として、袖ヶ浦(現在の芝浦沖、旧芝田町九丁目、高輪の大木戸の北東沖)で開催されたのが水上運動会と称される行事の第一回であった。この年は、いみじくも義塾の体育競技団体を総合する組織である体育会が創設された年でもあった。時事新報社からの賞品なども出て賑わった行事となった。

袖ヶ浦周辺略地図
その後、端艇部では二十七年と三十年にそれぞれボート三雙ずつを新調し、三十一年三月には芝浦製作所内に艇庫も竣工し、競漕会は一層賑わいを増したのである。
この頃話題になったのが、水上運動会にやや先立って行われていた陸上運動会との開催時期の問題であった。当初は五月の上旬または中旬に行われていた陸上運動会の時期は雨天の場合が多く、準備に手間のかかる陸上運動会には都合が良くないので、雨の少ない秋に変更して、逆に水上運動会を春に移行しようというものであった。
そして翌三十二年からは、春季に水上運動会を、秋に陸上運動会をそれぞれ開催するようになった。
その後またこれを変更し、同四十二年から大正十一年に至る十四年間は春に陸上、秋に水上を行っていたが、同十二年から、再々度変更し、春水上、秋陸上となり、戦後に至るまでこれが引き継がれていった。
競技種目としては、全塾運動会は、長距離、短距離を問わずの各競走やフィールド競技が、水上運動会では、ボートレースや「たらいレース」が実施された。

昭和34 年度水上運動会でのクラス対抗「たらいレース」
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