慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第90回──三田評論 2014年5月号    
 

平和来──卒業二十五年塾員招待事始

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾横浜初等部長・大学看護医療学部教授)  
     
 

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 三田山上の、塾監局前の植え込みの広場に、「平和来」と名付けられた青年像の彫刻が立っている。春には、青年像に重なる桜の枝々を透かして図書館が見える様が、殊の外美しい。また、冬には、葉を落とした木々の間にすっと屹立する青年像は、寒さも相まって、緊張感のある表情を示す。第二次世界大戦の際に出征して行った塾生達は、この脇の坂を下り、幻の門を出て、戦地に向かったのであった。

 

平和来

 「平和来」の青年像は、朝倉文夫による。朝倉の彫像は、義塾には他に旧図書館脇にある小山内薫胸像、矢上理工学部にある藤原銀次郎胸像があるが、これらと異なり、元々は日展に出品された作品である。昭和七年卒業生により、戦歿塾生塾員の霊を慰める記念碑にはこの像がふさわしいと、朝倉の協力を得て寄贈されたのであった。
 
 その台石には、次の言葉が刻まれている。


 「丘の上の平和なる日々に  
  征きて還らぬ人々を思ふ         

 小泉信三 識」



 その除幕式は、義塾創立百年を翌年に控えた昭和三十二年十二月一日の日曜日に行われた。この日の情景を当時の『三田評論』が伝えている。それによれば、卒業生代表の式辞の後、ワグネル・ソサィエティー合唱団が歌う荘重な鎮魂祭ミサが流れる中、紅白の幕が落とされ、青年像が現れた。



 その日は晴天で、「丘の上からは遠く品川沖や銀座方面もよく眺められた」というが、幕が落とされるや、台石の蔭から数十羽の鳩が、「像をめぐって翔いあがり、平和の光、さんさんとふりそそぐかと思われた」という。

 塾長奥井復太郎の謝辞に続いて、元塾長小泉信三が次の主旨の挨拶を述べた。


 「このたび台石に何か言葉を書くようにと依頼されたとき、自分はその任でないと断ったが、考えてみれば、この三田山上から学徒が出陣したのは、私の塾長時代であったので、思いかえしてこの拙い言葉を刻ませてもらった。」


 そして最後に、一同で塾歌を斉唱したのであった。



征きて還らぬ人々

 小泉は、戦時中塾長として、多くの塾生を戦地に送り出した。それだけに、征きて還ることの出来なかった塾生へ深い感慨があった。



「平和来」除幕式 左より小泉、朝倉文夫、奥井復太郎塾長


 空襲の大火傷による入院から退院すると、三田のキャンパスからほど近いところで戦後の生活を始めた。療養していた二階の部屋からは品川の海までがよく見えたという。敗戦後の最初の冬の情景の記憶を次のように記している。



 「あの冬は、どういう加減だったか、海の上の空を、日々、おびただしい鳥の大群が飛んで過ぎた。私はその時、慶應の塾長をしていたが、慶應を卒業し、または在学のまま、多くの青年が戦争に出て死んだ。多くの人を失ったその後で、遠くから来て、遠くへ飛び去る鳥の群れを見る気持は言い現しがたいものであった。」



 これは「終戦十年」という随筆の一節である。つまりその情景は、小泉にとって時間が経っても薄れることのない切なるものであった。

 小泉には、元々、戦歿者の追悼について考えがあった。


 昭和十一年、ハーバード大学創立三百年式典出席と米国の大学事情視察の為に渡米した。その際に、深く感銘を受けたのが、感謝祭が行われたハーバード大学内の教会であった。世界戦争に出征して戦死した同窓を記念する為のもので、それに附属して、戦死者の名前を刻んだ記念堂もあった。小泉は、大いに学ぶべきことであると感動して暫くそこに佇んだという。


 そして、十三年、塾員に戦歿者が出ると、「我々が彼らに対して感謝する途は今日ではもはや唯一つしか残されていない。ただ我々は彼等を忘れないということこれのみであります」と述べ、ハーバード大学のように、氏名を刻んで永久に残す方策を具体化したいと語った。しかし、時局は悪化の一途を辿り、計画の実現は叶わなかった。



「平和来」碑文


 戦後になって、その意を生かそうとしたのが、昭和七年卒業の塾員有志であった。昭和三十二年三月の三田山上での卒業式に、卒業二十五年で招待を受けた彼等は、そのことに感激して、その返礼として、恩師を招いての謝恩会を開くだけでなく、小泉の願った慰霊の為の碑の実現を企てたのであった。しかし、当時の三田山上は大講堂も焼失し、名前を刻んだ板を飾るに適した場所もない。しかも、「戦死者の名前を集めるにしても、遺漏があってはゆかぬというようなことから」記念像の建立に落ち着いたという。
 除幕式における卒業生代表の式辞が残っている。慰霊の念の強さがよくわかるので一部を紹介したい。



 「聞くところによりますと欧米各国の著名なる大学には出身戦歿者の霊を慰さむる記念像等が校内に数多く安置されて居ると言う事であります。これに倣った訳ではありませんが、吾々一同は、同期生諸君の圧倒的支持を受け塾出身戦歿者の慰霊記念像建設を画し唯今茲にその目的達成を見たのであります。

 諸兄諸君よ。貴君方は勇躍国難に赴き不幸にも身命を犠牲にされたのであります。私達は声を大にして云う。私達は前途有為なる諸賢を失いし事を心から悲しむ。然しながら御霊よ!若し仮に此の現世にありとせば、此度三田山上に来り遊び給え。更に願くばこの像を巡りて若き日の喜びと感激を追想し遥かなる昔を偲びて暫し心の安らぎを得られん事を。唯々私達は心から諸賢の冥福を祈るものであります。」


 


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