慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

慶應義塾の風景
三田評論表紙
2016年7月号表紙


space今月の特集spaceKEIO PHOTO REPORTspace立ち読みspace三田評論とはspace次号予告space前号紹介spaceバックナンバーspace講読方法space
  メインページ->立ち読み  
  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第88回──三田評論 2014年3月号    
 

下田グラウンド

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

12
 
 

「下田」の由来

 港北区下田町は、古くは橘樹郡駒ヶ橋村と称した。その名の由来としては、源頼朝がこの村を通過するとき、乗馬が急に走り出してようやく橋の辺りで止まったから、という説がある。明治二十二(一八八九)年に市町村制が施行され、矢上村、南加瀬村、鹿島田村、駒林村、箕輪村、小倉村と合併して日吉村大字駒ヶ橋となった。さらに、昭和十二年には横浜市に編入され、日吉村大字駒ヶ橋の区域に下田町が設けられた。由来は、江戸時代の検地において、「上田・中田・下田」の区分がなされており、この周辺は収穫の低い田である「下田」とされていたことによるといわれている。そして昭和五十九年に住居表示が施行され、下田町、 日吉本町が新設された。

 

慶應義塾の進出

 昭和八(一九三三)年、日吉に校地を入手した義塾は、校舎だけでなく、陸上競技場をはじめとする様々な体育施設を建設した。加えて、東横線以東だけでなく、日吉駅西側一帯に広がる横浜市神奈川区下田町(現港北区下田町および日吉本町)の土地約一万九千八百坪余りを購入することを決め、同十三年九月二十日の評議員会で原案通りに可決した。翌々年の同十五年の秋、野球場とラグビー場が新設され、また翌十六年十月二十日には、日吉本町の普通部第二グラウンドの東隣の土地、現在外国人教員用宿舎であるネッスルハウスのある場所に体育会の寄宿舎(合宿所)として、野球部、蹴球部用の各一棟、ライトグリーンに外装された木造二階建て二棟延べ三〇八坪と、木造食堂一四四坪、その他の付属施設として応接室、ロッカールーム、総タイル張りの電気式湯沸かし器付きの浴場が両部共用で建築された。この寄宿舎の総工費一四九、三四六円の半分は各部のOB会である三田倶楽部(野球部)と黒黄会(蹴球部)の寄付で賄われた。



 同じ十六年の三月に現在の地に整備されたホッケーグラウンドと、東横線脇の土地から移動してきたソッカー場も含めて、下田地区一帯の体育施設の充実が図られたのである。一方、時代は戦争へと一気に傾き、平和の証であるスポーツは、厳しい立場に追い込まれていく。



第二次世界大戦を経て

 昭和十九年、文部省の余裕校舎貸与指示に従って、二月二十五日の評議員会を経て、日吉の予科校舎や寄宿舎などの施設について、かねて内談のあった海軍省と、十九年三月十日から翌二十年三月末を期限とする賃貸契約を結んだ。学生の勤労動員の強化にともない教室に余裕が生じると、これに対応して次第に使用坪数が拡大され、第一校舎には海軍軍令部と海軍建設部隊、寄宿舎には連合艦隊司令部が駐留し、地下には蜘蛛の巣のごとく縦横に堅牢な防空壕が構築された。また陸上競技場や下田の各グラウンドは獣医畜産専門学校の農園に転用された。



 前述のとおり、寄宿舎が海軍に徴用されたので、やむなく義塾は、下田の体育会合宿所を一般塾生の寄宿舎に代用し、学生をここに移した。ところが翌二十年四月、海軍功績調査部長名をもって、この合宿所をも借用したいとの申し入れがあった。しかし義塾は、寄宿舎の重要性、ならびに、前の移転の際、ここは借用しないという了解があったことなどを理由に、この申し入れを断ったのである。



 終戦後体育会合宿所は、引き続き一般塾生の寄宿舎として利用され、工学部や大学予科の事務室の用にも供された。昭和二十三年四月に改修され、翌二十四年八月末のキティ台風により若干の被害があったが、まもなく旧に復した。また同二十五年には合宿所裏の、戦前から改廃申請中であった村道が廃止認可となって、横浜市から無償譲渡された。グラウンドも畑の畝を均して再びグラウンドとして整地され、加えて同二十五年にはソッカー防球金網工事が施された。


戦後の建設ラッシュ

 義塾創立一〇〇年記念事業の日吉記念館建設で、キャンパス内の五面のテニスコートを失った軟式庭球(現ソフトテニス)部が、同三十三年九月十四日に、ホッケー場西奥にある現在の四面のコートを設けた。翌三十四年には軟式庭球部の木造平屋建ての合宿所三十坪余りと、女子更衣室六坪が三田軟式庭球倶楽部から寄贈された。さらに同四十三年九月十五日にはホッケー部創立六〇周年の最終事業として、軽量鉄筋コンクリート二階建て延べ三十四坪の更衣室(ロッカールーム)が、三田ホッケー倶楽部の寄付で完成した。同じ年の十二月には、新たに軟式庭球部のプレハブ更衣室十五坪が三田軟式庭球倶楽部の寄付で竣工と、建設ラッシュが続く。



 百年史によると、昭和四十年三月現在、下田には以下の施設が存在した。野球場、蹴球場、庭球コート、ホッケー場、ソッカー場、バレーボールコート、ハンドボール場、寄宿舎(野球部、蹴球部用)、柔道部合宿所、水泳部合宿所、スキー部合宿所、軟式庭球部合宿所。また現在下田学生寮がある場所には、浴室、更衣室やグラウンド管理人宅などが点在した。



下田地区(昭和40年3 月、『慶應義塾百年史 下巻』より)


 その後も各部施設の充実が図られ、昭和四十四年五月十八日にはコンクリートブロック積平屋五十二坪の合宿所が三田ソッカー倶楽部の寄付で竣工したのに続き、普通部第二グラウンド脇にあった野球部、蹴球部の合宿所が下田グラウンドへ移転された。同四十六年八月十八日に鉄筋コンクリート二階建て延べ二三〇坪の野球部合宿所と雨天投球場が、翌九月十四日には同じく鉄筋コンクリート二階建て延べ二二六坪の蹴球部合宿所が竣工した。両合宿所の総工費九五〇〇万円のうち、三田倶楽部と黒黄会がそれぞれ一五〇〇万円ずつ寄付金を集めた。これにより、応接室や食堂、浴場など両部の共用部分が多かった木造合宿所に比べ、快適な環境で合宿所生活を送ることができ、何より道路一つを隔ててグラウンドに出られるという好条件を得たのであった。


また昭和六十三年一月二十八日には、女子用の合宿所である「下田ハウス」が照井伊豆元体育会主事のご令室の寄贈により竣工した。

line

 

これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

これ以前の連載はこちら

 
 
   
line  
 
 
 
  12  
 
TOPへ戻る
 

 

 
Copyright (C)2004-2010 Keio University Press Inc. All rights reserved.