かつて、現在の東急池上線に「慶大グラウンド前」という駅があった。この駅名の由来となった新田運動場は、大正十五(一九二六)年から昭和九(一九三四)年の日吉グラウンド開場までの間存在した、慶應義塾所有の総合運動場であった。
慶應義塾の運動施設
福澤先生は、学問の追求と共に体育の重要性を早くから重視し、義塾がまだ新銭座にあった頃から、中庭を運動場として、そこにシーソー、ブランコ等の運動施設を整えていた。
さらに三田に移ってからは先生が自ら乗馬、居合、米つき、散歩等を行い、絶えず運動を怠らぬばかりか、塾生にもさかんに運動をすすめて、さまざまな運動施設を備えつけた。また専門家を雇っていろいろな運動の指導を依頼していた。そのための施設として、初め三田山上の広場(現在の大学院棟の辺り)が運動場としてあてられていた。
しかし、明治二十年代以降、あいついで行われた校舎の増築のため手狭となり、新たな運動場の設置が望まれ綱町グラウンドの開設を見たのである。それでも充分とは言えず、明治二十五年五月設置の体育会では新たな運動施設の入手が検討されていた。
新田運動場
大正十二年、当時塾長だった林毅陸の日記を見ると、候補地検分のため、六月十日に板倉卓造体育会理事や体育会幹部を伴って世田谷、玉川方面に出かけ、十一月八日にはまた板倉と寄宿舎舎監堀内輝美との両者と矢口村に、同月十六日にはその両名に加え幹事石田新太郎を加えた四名で調布に出向いた。
翌十三年三月の評議員会で、府下荏原郡矢口村の土地一万三千七百十坪を十四万七百三十円で購入することが承認され、整地の上諸設備を施して総合運動場とすることとなった。所在地は矢口村であったが、目黒蒲田電鉄の武蔵新田駅に近かったので「新田運動場」と呼ばれるようになった。

新田野球場スタンドからの光景
この土地はもともと農地で多数の地主の所有するところであったが、順次買収を進め、水田区域の埋め立て用土の採取場として追加購入した五百四十一坪を加えて、計一万四千二百五十一坪の敷地を購入した。大正十四年三月から整地を始め、陸上競技用の四百メートルトラックに囲まれた蹴球場が大正十五年六月に完成し、蹴球部と競走部合同の運動場開きが挙行された。
続いて、一万五千人収容の古いレールを組み立てた観覧席や鉄骨造防球網を備えた、当時としては完備された野球場が八月に完成した。竣工早々の八月二十八日にはフィリピン野球団を招いての球場開きの試合が行われた。
昭和六年から東京六大学野球戦の全試合が神宮球場で行われるようになるまで、ここで試合が執り行われることもあった。また、野球部のOB会である三田倶楽部の寄付と義塾体育奨励会醵出による野球部寄宿舎も併設された。加えて昭和二年から八年に開かれた全塾運動会はこの新田運動場が会場であった。
腰本寿が監督を務め、大正十四年から昭和九年までの間に七回のリーグ優勝を経験した、塾野球部黄金時代はこの球場で培われた。大正十五年の秋リーグで、神宮で行われた初戦に六対四で早稲田が先勝した翌日の十一月七日、慶早第二戦は新田球場で開催され、二対〇で塾野球部が完封勝利している。因みに翌八日に早稲田の戸塚球場で開かれた第三戦は三対二で早稲田の勝利であった。新田球場で開かれた慶早野球戦の公式戦はこの一試合だけであった。
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