慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

慶應義塾の風景
三田評論表紙
2016年7月号表紙


space今月の特集spaceKEIO PHOTO REPORTspace立ち読みspace三田評論とはspace次号予告space前号紹介spaceバックナンバーspace講読方法space
  メインページ->立ち読み  
  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第85回──三田評論 2013年12月号    
 

越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎

 
 
 
     
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

12
 
 


西脇順三郎

 

 詩人・英文学者として名を馳せた西脇順三郎は、明治二十七年一月二十日小千谷にて、小千谷銀行頭取・小千谷町長を務めた西脇寛蔵の次男として生まれる。旧制小千谷中学(現小千谷高校)卒業後、明治四十四年に画家を志して上京するが、画学生の気風になじめなかったところに父の急死があり、画家を断念し、翌年慶應義塾大学理財科予科に入学する。大正六年に卒業後、文学者として生きることを決意して予科教員に就任、大正十一年には慶應大学の留学生として、オックスフォード大学ニューコレッジで古代中世英語英文学を学ぶ。留学中、英国人画家マージョリ・ビッドルと結婚し(昭和七年離婚)、“Spectrum” という英文詩集を自費出版する。大正十四年に帰国、翌年慶應義塾大学文学部教授に就任、以後英文学を教える傍ら、モダニズム、シュールレアリスムの詩人として多くの詩集を出版し、四度もノーベル文学賞候補に上がっている。

 

 

 上越新幹線長岡駅から上越線で南下すること二十分弱で、小千谷駅に到着する。小千谷は、八海山、中ノ岳、越後駒ヶ岳の越後三山を望み、信濃川の河岸段丘に開けた町である。米どころであるが、冬は積雪が三メートルも越えることもある雪深い所でもある。

 

 

 小千谷で西脇と言えば、小千谷名産の縮商人として財を成した名家として知られている。駅正面の道を進み、信濃川に架かる旭橋を渡ると本町通りとなるが、そのまま直進した右手に、今は無住だがかつての繁栄ぶりをうかがわせる「西脇本家」(本町二丁目七-六)がある。

 

 

 西脇一門は、本家を中心に「西新」「西義」「西清」の分家で構成されているが、順三郎は「西清」の家に生まれる。順三郎の祖父に当たる「西清」の祖・西脇清一郎は、婿養子として本家に入り、十代目当主となったが、九代目に実子・国三郎が生まれたため、分家して「西清」を起こした。順三郎の生誕地は、本家の裏手、茶郷川に架かる堺橋のふもとに当たり、今は空き地の広がった一角に甥に当たる西脇正久氏宅(平成一丁目二-一五)がある。

 

 

 上京した順三郎は、あまり小千谷に帰ることはなかった。特に昭和二年マージョリ夫人を伴って帰省した時、夫人を奇異な目で見られてからはなおさらであった。「小千谷なんて大嫌いだったんです」「ガソリンの匂いが大好きで、東京へ着くとガソリンの匂いがして、それが好きだった」と安東伸介との対談で語っている(「初夏の一夕」『ミメーシスの詩学 安東伸介著述集』所収)。戦時中は、疎開地として致し方なく小千谷で過ごしたが、実家に戻ったわけではなかった。

 

 

 そんな順三郎であったが、昭和五十年妻・冴子(父は柏崎出身)に先立たれてから、毎年小千谷を訪れるようになり、子どもの頃の思い出の地を巡歴するようになる。
「私は老いるにつれ、自分の生まれ故里をよかれ、あしかれ、だんだん、なつかしむようになったということは、鮭などと同じく生まれたところへもどってくるのと同様なことだ。それは自然の現象であろう。」(『宇宙的な心細さ』)

 

 

 昭和五十一年に順三郎は、蔵書多数を小千谷市に寄贈し、翌々年小千谷市立図書館が開館した際、その一室に「西脇順三郎記念室」が開設された。現在、市立図書館三階に「西脇順三郎記念室」と「西脇記念画廊」が設けられている。「記念室」正面には、順三郎が寄贈したシェークスピア、エリオット、ローレンスなどの洋書約千二百冊が並べられている。左手には順三郎関係者の著作が置かれ、彼の書簡、カメラ・万年筆などの愛用品も展示されている。

 

 

 隣室が、生涯絵画を嗜んだ順三郎の絵を展示した「画廊」になっている。近くの小出町出身のベースボールマガジン社社長故池田恒雄氏からの寄贈品を中心に、約六十点を所蔵し、うち十点ほどが展示されている。

 

 

 既に衰えの様相を見せていた順三郎であったが、息子順一氏のロンドン転勤もあり、昭和五十七年五月十日、郷里に戻って小千谷総合病院に入院する。そして六月五日、故郷の景色が望める病室にて静かに息を引き取る。市民葬も執り行なわれ、照専寺(平成二丁目二‐三七)の「西清」の墓所に分骨された。墓石正面には「萬霊塔」、裏面には「明治廿六年五月 西脇清一郎」と刻まれている。照専寺の本堂前庭には、

 

この菩提寺の茶室に招かれて
静かにせんべいをたべたことも
また先祖のこの石も

 

 とある順三郎の詩碑も置かれている。
 
 晩年の順三郎が、いかに小千谷を愛していたかという証拠に、小千谷高校、小千谷西高校、小千谷中学校、小千谷小学校と四校もの校歌を作詞している。しかも、小千谷高校と小千谷西高校には校歌の碑が建てられている。

 

 他に小千谷における順三郎の詩碑は、船岡公園の「舟陵の鐘」の碑と山本山山頂にある碑がある。市街中心から南方に車で二十分、公園になっている山本山山頂に到着する。ここに大ぶりな順三郎の詩碑(昭和六十年建立)がある。表には母校の小千谷小学校創立百周年に創られた次の詩が刻まれている。


山本山からの景色

 

山あり河あり 暁と夕日が綴れ織る
この美しき野に しばし遊ぶは
永遠にめぐる 地上に残る偉大な歴史

 

 裏には『旅人かへらず』終章からの、

 

この山上は
わが青春時代より散策し郷里の偉大なる存在を
感ぜしところなり

 

 が記されている。この場所は、順三郎が生前、詩碑を建てるならこの場所にと希望した所だけあって、南東近くに信濃川の蛇行、遠くに越後三山、南西に妙高・黒姫などの北信の山々、北は新潟平野を隔てて弥彦山、眼下に小千谷の市街が広がる絶景の地であった。「この辺の景色はどうも好きになれない」と記していたが、この景色を見ると、「ぼくは小千谷へ行って信濃川を見て、小千谷の塩辛い料理を食べて死にたい」と晩年小千谷に吸い寄せられていった順三郎の気持ちが解る。

 

 

 

 

line

 

これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

これ以前の連載はこちら

 
 
   
line  
 
 
 
  12  
 
TOPへ戻る
 

 

 
Copyright (C)2004-2010 Keio University Press Inc. All rights reserved.