慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第83回──三田評論 2013年10月号    
 

神宮球場

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾横浜初等部長・大学看護医療学部教授)  
     
 

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 慶應義塾も今日では大学の学部は十に増え、主なキャンパスも六を数える。どの世代も、どの学部の出身でも、共に思い出の一齣を持つ場所をそのキャンパスに探すことは出来なくなった。しかし、全ての塾生、塾員が共有する体験を持つことのできる唯一の場所がある。それが、早慶戦の熱戦が繰り広げられて来た神宮球場である。

 

 

早慶戦復活と球場建設

 

 早慶野球戦はちょうど百十年前の明治三十六年、早稲田大学の挑戦状を受けて三田綱町グラウンドではじまった。応援の過熱から、同三十九年秋以来中断していたが、大正十四年に復活する。そして、その翌年に明治神宮外苑に竣工したのが、神宮球場である。

 

 

 神宮球場は、特に東京六大学野球関係者の強い希望と尽力によって、作られた。この時、明治神宮奉賛会は四十八万円までしか出せなかったため、東京六大学野球連盟では、バックネット裏に特別指定席を設けて優待券を発行、五万円を作り出し、建築費を補ったのであった。

 

 

 それまでの六大学野球は、各校のグラウンドで行われ、早慶戦も、早稲田の戸塚球場(後の安部球場)、慶應の新田球場で行われていた。神宮球場での最初の早慶戦は、大正十五年秋の第一回戦に行われ、昭和二年秋からは、両校の球場と併用せずに神宮球場で全試合行われるようになった。

 

 

 ちょうど、塾野球部と早慶戦の黄金時代に差し掛かる時で、塾野球部には、宮武三郎、山下実らが活躍、昭和三年秋には、十戦十勝の全勝優勝を成し遂げ、ストッキングの青赤青の赤の帯に、記念の白線が加わった。『若き血』、『丘の上』も昭和二年、三年に作られている。

 

 

 当初は、すぐには満員になることはないだろうと言われていた二万九千人収容の球場も、最初のシーズンから来場者が球場外に溢れ出た。そのような中で、リーグ戦を終えた昭和四年十一月一日、明治神宮大会で天覧の早慶戦が実施された。
その日も、入場できないファンが、球場を「十重二十重」にも取り巻く状況で、陛下と共に来られた秩父宮殿下から、球場を拡張してはとの御下問があった。御説明役の、早稲田の安部磯雄と塾員平沼亮三が、貴賓席から明治天皇を記念する聖徳記念絵画館が見えなくてはならないので、拡張できない旨をご説明したところ、殿下から、(気にせずに)「拡張して多くの人に見せるようにしては」と重ねてお言葉があった。

 

 

 このお言葉に力を得た六大学野球連盟は、理事会を開いて拡張を決定し、外苑管理評議会や明治神宮をはじめとする関係各所との手続きも行ったのであった。総工費は五十四万余円、全て、六大学野球連盟が負担した。これによって、内野スタンドも外野スタンドも大幅に拡幅し、収容人数も五万五千名となった。球場を取り巻くスタンド下のアーケード型通路はこのスタンド拡幅によって出来たものである。

 

 


満員の慶應側スタンド
(昭和8年春季早慶戦を報じるニュース写真より)

 

 ちなみに、神宮球場が他の多くの野球場の方角と異なり、外野手にとっては太陽が眩しくフライがとりずらいのも、ホームベースからセンター方向延長線上に、絵画館が見える方角になっているからである。

 

 

 改築後の最初となる昭和六年春の早慶戦は更に盛り上がる。当時の東京日日新聞は試合前から「応援戦術芸術化」等の見出しで記事 を載せ、第一回戦後、「リズミカル応援合戦」の見出しでこう報じた。

 

「バンドを擁す組織を確立した両応援団は、田村(慶)溝口(早)リーダーのタクトで互いにエールを交換、紳士的協定がよく実行され、バンド奏楽は悪野次を吹っとばし合唱─拍手─応援がリズム化し効果百パーセント、敵勢に応じて戦術の妙をつくし、この応援戦は正しく五分と五分、慶應が軽快な気力で押せば、早大が豪強な底力でこれを迎え、早に荒削りの頑健あれば、慶に近代的な明朗がある。」

 

 

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