慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第82回──三田評論 2013年8,9月合併号    
 

富士見高原──空気はよし風俗は朴素なり

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾横浜初等部長・大学看護医療学部教授)  
     
 

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富士見高原病院

 

 富士見駅から北側に車で五分程の所に富士見高原病院がある。現在では長野県厚生農業協同組合連合会が運営する病院になっているが、この前身が富士見高原療養所である。
富士見に総合病院をという構想が出来る中で、地元の有力者が頼ったのは、この地の出身で、当時義塾の医学部神経科教授であった植松七九郎である。植松は、内科学の助教授であった正木俊二に相談をした。正木は、パリのパスツール研究所に留学していた折、スイスで高原のサナトリウムを見たことがあった。実際に調べて見ると、富士見は日照は長く湿度は低い。結局、結核治療にも関心の強かった正木が、医学部の助教授のまま、院長を引き受けることになった。

 


昨年解体された富士見高原療養所旧病棟

 

 

 

 その時、取り交わした条件は、「医務一切を貴学部に一任すること」、「所長その他の職員の任免の一任」そして「如何なる損失を生ずるとも貴学部に御迷惑を相懸けまじき事」であった。したがって、大正十五年、株式会社富士見高原療養所の開業時の広告の医師一覧を見ると、卒業後数年の医学部の一回生から四回生の名前が並んでいる。

 

 

 しかし、総合病院の形をとったことでの負担も大きく、病院の収支は厳しく好転しなかった。正木は正木不如丘の名で作家としての活動もしていたのだが、その原稿料も病院の赤字の穴埋めに充てなければならなかったという。結局は、昭和三年に会社を解散して清算することとなった。正木は、結核の療養所に特化した病院を個人で運営することを決意し、富士見高原日光療養所として再出発したのであった。

 

 

 当時は結核に有効な薬の無い時代である。八ヶ岳を望み、病室を開け放って日光を浴び、大気を取り入れる大気日光療法は評判となった。また、作家正木不如丘を慕って、横溝正史、竹久夢二、久米正雄、堀辰雄をはじめ作家、画家が入院したり、来訪滞在した。正木の医師としての奮闘と作家としての交友があってこそ生まれたのが、ここを舞台にした小説であり映画なのである。

 

 

 現在は、地域の中核的な病院として姿を変え、建物も近代的な病院になっている。昨夏までは、当時の病棟の一つが保存され「旧富士見高原療養所資料館」として公開されていたのだが、残念ながら、一昨年の大震災後、耐震性が問題視されるようなり、解体されてしまった。このように建物も経営主体も変遷したが、変わらないものに病院のマークがある。実は、ブルー・レッド・アンドブルーの三色の線の中に、赤で太陽を示す印が描かれている。このマークは、正木に頼まれて、医学部の三回生の宮田重雄が考案した。宮田は、医師の傍ら画家としても活躍、また戦後はNHKの「二十の扉」の解答者としても知られた人である。

 

 

 正木は、探偵小説まで手掛ける作家であり、また俳人でもあった。医学部でも、文芸部に関わり、同人誌『脈』の刊行等にも熱心に携わった。宮田も学生時代はそのメンバーであった。初期の医学部からはこの宮田の他、探偵小説作家としても生理学者としても著名な林髞(筆名、木々高太郎)など幅広い人が出ているが、そのような学生達の雰囲気には正木の存在も大きかったであろう。

 

 

 今回取り上げた白林荘は公開されていないし、富士見高原療養所の資料館も解体閉鎖されたままである。しかし、犬養毅の人柄を知る上で、また草創期の医学部の医学に留まらない雰囲気を知る上で貴重である。代りに、これらの史跡については、富士見駅近くの富士見町立「高原のミュージアム」の展示で知ることができる。

 

 

 

 

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