慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第82回──三田評論 2013年8,9月合併号    
 

富士見高原──空気はよし風俗は朴素なり

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾横浜初等部長・大学看護医療学部教授)  
     
 

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 新宿駅から特急あずさで中央本線に約二時間乗ると、富士見駅に至る。中央本線の駅の中では一番標高が高い駅で、駅から北側には、八ヶ岳の南麓の雄大な高原の景色が広がっている。また、南側には、入笠山から南アルプスが迫っている。


 富士見高原は、富士見公園に、伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らの歌碑があることから示すように、「アララギ」ゆかりの地としても知られている。
また、結核療養所での哀しさを描き、何度も映画化された『風立ちぬ』(堀辰雄著)『月よりの使者』(久米正雄著)の舞台としても知られている。 この夏も、『風立ちぬ』に着想を得た宮崎駿監督の同名のアニメが話題になっている。
一見、慶應義塾とはつながりの無さそうな地であるが、義塾とも縁の深い、白林荘と富士見高原療養所を訪ねてみたい。

 

 

白林荘

 

 昭和七年五月九日、三田山上の大講堂において、義塾創立七五年の記念式典が行われた。塾員の犬養毅は、総理大臣として祝辞を述べた。
同日夜には帝国ホテルで行われた連合三田会にも出席した。そして、それから一週間も経たぬ五月十五日、いわゆる「五・一五事件」で凶弾に斃れるのである。
この犬養が晩年に愛した地が、富士見高原であり、その別荘が大切に今も保存されている。富士見駅から南側、入笠山のふもとに、犬養毅(木堂)の別荘であった「白林荘」がある。

 


老栗亭での木堂

 

 

 

 木堂が、富士見村出身の政治家、小川平吉に勧められてはじめてこの地を訪れたのは大正十一年のことであった。以来、避暑等に訪れて、すっかりこの地を気に入り、土地の人の協力を得て、自らの別荘を建てた。完成したのは大正十三年のことである。そして、十四年に七十歳で政界からの引退を表明すると、初夏から秋にかけて白林荘で過ごすようになる。多い年には、百日以上の日を過ごすこともあった。

 

 

 木堂は、富士見の気候が湿気が無く、サラサラとした肌ざわりの爽やかな風の中で日を浴びるのが健康に良いと気に入った。また、早くに開けた観光地と違い、都会的な文化的な臭いが鼻をつくことも無く、皆モンペ姿で黙々と働いているその醇朴な風も気に入ったという。この頃の書簡にも「空気はよし風景はよし水はよし風俗は朴素なり」と一度ならず記している。また、子供が結核になった知人に対して、日光浴の効能を記し、富士見を勧めた書簡もある。後述の療養所が建設されるよりも前のことである。

 


現在の白林荘

 

 

 白林荘は、木堂歿後、建て増しはされているものの、仏間、書生部屋、女中部屋、書庫等も往時のままに保存されている。
木堂が、三十年後には白林荘の名にふさわしい林にすると楽しみにして植えた白樺の苗木は、現在では見事に育って心地よい木陰を作っている。縁側に座ると、成長した木々に隠されて、往時のようには八ヶ岳から富士山を見渡すことは出来ないが、木堂の悠々自適の日々とその心境を偲ぶことができる。

 

 

 木堂が多年探し求めていたところ、それを知った人から贈られて大喜びしたハナノキも大きく枝を張り、春には赤い花を咲かせている。また、中国を訪れた際に孫文から贈られたとされる白松もある。庭は、きれいに手入れされているが、木々の自然な成長も大切にされている。素朴さを大切にした木堂の嗜好が今も受け継がれているのであろう。

 

 

 ちなみに、私が訪ねた日には、庭師がコンクリートで四角に囲まれた所に、落ち葉をまとめて燃やしていた。これは、孫の道子のために造った砂場の跡であるという。「スナアソビノバショ ト スベリダイ トスグコシラエル カラ ライゲツキテオクレ」とか「ミチコサンワナゼキマセンカト、ブランコガマッテオリマス」と孫の来訪を待ちわびる祖父でもあった。

 

 

 また、広大な庭の端には、老栗亭と名付けられた小さな離れ家がある。屋根は藁ぶきから瓦に変わり、周りの栗の木も減ってはしまったが、それ以外は当時のままである。
木堂は、富士見の青年達や村人たちと、この老栗亭の囲炉裏を囲んだり、縁側に座って、よもやま話をしたり、農業の改良について話をするのを好んだ。実際に、村人が日々の生活で着用していた、袴の裾を脚絆のようにまとめたタッツケを愛用していたので、富士見での写真はタッツケ姿が多い。また、痩せた土地と、寒さに強いトウモロコシ、馬鈴薯、豆、イネ等の新品種を取り寄せては、試作させたという。

 

 

木堂は、富士見での心境を、王臨川の詩に重ねてこれを好んだ。

終日山を看て、山に厭きず。
山を買って、老を山間に待つ。
山花落ち尽して、山長とこしえに在り。
山水空しく流れて、山自ら閑なり。

 

 

 というもので、木堂自筆の書からとったこの詩を彫った石碑が、今日、玄関脇の木々の間に建っている。
しかし、この日々は長く続かない。木堂は昭和四年、急死した田中義一政友会総裁の後任に引っ張り出され、六年には首相に指名される。そして翌七年には五・一五事件で斃れるのである。直後の五月十九日には、富士見では、木堂に名前を付けて貰った子と親達での追悼式が開かれ、その後も長く、毎年五月十五日には村人による追悼の会が開かれていたという。

 

 

 なお、白林荘は一般には公開されていないが、木堂の子、犬養健の同僚の政治家・実業家に譲られ、今日もその子孫によって大切に維持されているのは嬉しいことである。

 

 

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