慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第81回──三田評論 2013年7月号    
 

みちのくの史跡を訪ねて──能代・弘前・木造

 
 
 
     
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

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木都の父 井坂直幹

 

 秋田駅から奥羽本線を特急で北上すること約一時間、東能代駅に到着する。能代市は、秋田杉の集積地として栄え、「木都 能代」と呼ばれているが、「木都の父」といわれているのが井坂直幹である。


 彼は万延元(一八六〇)年、水戸藩の下級武士の家に生まれる。明治十四年、福澤先生と同郷で門下生である茨城師範学校長松木直己の推薦で、慶應義塾に入学する。自叙伝に「明治十四年春、(福澤)先生の家に寄宿し、先生より学資を給せられて、なに不足なく三カ年の課程を卒うることを得たるは、ひとえに松木氏の推輓と先生の殊遇によるものとして実に終生忘るべからざるの恩義とす」「自分の性格が多少世のいわゆる紳士、紳商とその撰を異にするところあらば、これひとえに少時水戸において武士的な教育を受けたると、その後福澤先生に従して、その偉大なる人格の感化を蒙りたるによるものならん」とある。明治十六年九月より十二月までの慶應義塾勤惰表を見ると、総合成績点でトップであり、簿記は百点満点である。

 

 

 明治十七年、福澤先生が主宰する時事新報社に入社し、編集・翻訳を担当する。明治二十一年林産商会に入社し、能代支店長として赴任するも林産商会解散、久次米商店能代支配人となるも閉店。明治三十年、独力で木材業に従事することを決意して、能代材木合資会社、能代挽材合資会社を設立する。

 

 

 それまでのノコギリなどを用いた木挽製材という伝統的手法から、英国から機械を輸入し機械製法という近代的手法へと転換したことから、製品は次第に声価を高めて全国市場を席巻した。そこで明治四十年にはそれまでの会社を統合して、秋田木材株式会社(秋木)を設立し、東洋一の会社に発展させた。

 

 

 彼は製材業に留まらず、製材機械の製作や電気事業に携わる。社員の福利厚生にも力を入れ、社員の親睦会を作ったり、労働時間を短縮して労働組合結成を促したり、社員教育を目的とした私立巡回図書館・扇井文庫を設立したりした。死期を悟ったときには、井坂奨学会を設立し、地元の向学少年に学資を貸与し有為の人材として世に送り出した。

 

 

 東能代駅から五能線で一駅、能代駅から徒歩十分、井坂公園(能代市御指南町)がある。ここはかつて井坂邸があったところで、井坂邸の土蔵を利用した井坂記念館がある(四〜九月、火・木・土開館)。元は敷地北側にあったが、昭和四十七年、記念館開館に際し、現在の地に移設した。一階は能代地方の木材産業史資料、二階は井坂直幹の人と事業の資料が展示されている。公園内には、大正十一年に造られ、戦中の金属供出の厄に遭ったが、昭和四十四年に再建された「井坂直幹君之像」がある。

 

 

 彼は大正十年七月二十七日、六十歳で逝去、墓所は能代の萩の台墓地公園と多磨墓地(一六区一種一九側)にある。井坂邸に隣接して、広大な敷地を有していた秋木であるが、輸入材などに押され、昭和五十九年に新秋木工業株式会社として再生、工場は全て秋田市向浜臨海地区に移転している。

 

 


井坂直幹君之像

 

 

 

東奥義塾と菊池九郎

 

 福澤先生が、英国のパブリックスクールの訳語とした義塾を「慶應義塾」として使用し始めると、校名に義塾とつける学校が陸続と現れ、百数十になった。その中で、当時から義塾を使用して現存している学校は、弘前の「東奥義塾」ただ一つであろう。その創始者が菊池九郎である。

 

 

 彼は、弘化四(一八四七)年、津軽藩百石取りの武家の家に生まれ、十二歳で藩校稽古館に入学。明治二年七月、二十三歳の時、藩主津軽承昭の上京に随行して慶應義塾に入塾し、英学を修める。同三年、藩主に命じられて鹿児島に留学するため、慶應義塾を退塾する。

 

 

 同五年、福澤門下の吉川泰次郎と同郷で慶應出身の成田五十穂、鎌田文治郎と弘前の地に私立洋学校を創立し、これを慶應義塾に倣って「東奥義塾」と名付けた。津軽承昭から資金援助を受け、敷地も藩校稽古館跡を与えられた。学校制度、規則、カリキュラム、教科書は慶應義塾を参考にし、さらに慶應義塾を範に、当初から外国人教師を招聘し、その影響で彼も洗礼を受け、東奥義塾もやがてミッションスクールとして成長していく。彼は、自由民権運動が起こると政界に入り、弘前市長、衆議院議員(一〜九期)、山形県知事、農商務省農務局長を歴任する。かたわら、社会の発展のためには、論評無私たるところの新聞が必要だとして、同二十一年、「東奥日報」を創刊する。

 

 

 しかし、東奥義塾は、二度の火災による財政難とキリスト教への弾圧によって、同三十五年、弘前市立弘前中学東奥義塾となり、同四十三年には青森県立となるが、大正二年に廃校となる。菊池ら元教員と卒業生による再興の思いによって、同十一年、再び私立学校として開校する。前中学東奥義塾となり、同四十三年には青森県立となるが、大正二年に廃校となる。菊池ら元教員と卒業生による再興の思いによって、同十一年、再び私立学校として開校する。

 

 

 昭和六十二年、東奥義塾高等学校は追手門前の下白銀町二から、奥羽本線石川駅近くに移転した。東奥義塾跡地は、弘前市市制百年を記念して平成二年、旧東奥義塾外人教師館、旧弘前市立図書館、観光館、郷土文学館、体育館などが置かれた追手門広場という文化施設地域に生まれ変わった。

 

 

 明治三十三年に建設された旧東奥義塾外人教師館は、前年に焼失した外人教師館に代わって建てられた木造洋館で、昭和四十五年までは歴代の外国人教師が使用していたが、今は外国人教師の歴史や写真、古い時代の家具や調度品が展示・公開されている。この広場には、「津軽藩校稽古館跡地」「東奥義塾跡地」「弘前市市制百周年記念追手門広場」の三つの銘板がはめこまれた碑がある。

 

 


旧東奥義塾外人教師館

 

 菊池は、大正十五年一月一日、七十八歳で逝去し、東奥義塾にてキリスト教による塾葬が施行され、藩祖津軽為信の御霊屋がある津軽山革秀寺に埋葬された。弘前城追手門から三の丸に入り、二の丸に渡る杉の大橋の左手前に、彼を顕彰するため昭和九年に建立された「菊池九郎先生碑」がある。

 

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三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
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2015年7月号掲載

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2015年6月号掲載

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2015年4月号掲載

第98回
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2015年3月号掲載

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2015年2月号掲載

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2014年12月号掲載

第95回
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2014年11月号掲載

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2014年10月号掲載

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──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

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──卒業二十五年塾員招待事始夫


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──空襲の痕跡


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2013年10月号掲載

第82回
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──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

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