慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第79回──三田評論 2013年5月号    
 

福澤先生と演劇 ──三つの劇場と三人の歌舞伎役者

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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 三年の工事を終え建て替えられた歌舞伎座が、連日盛況である。ところで福澤先生は五十を過ぎるまで、芝居らしい芝居を観たことがなかった。それまでは、少年のとき中津城内の能舞台で田舎芝居を観たのと、適塾時代に道頓堀で五代目海老蔵の舞台を二、三幕観たのとの二度限りであった。

 

 

東京での初観劇

 

 明治二十(一八八七)年三月二十一日、先生は家人と共に新富座で、明治期の東京劇壇の三大名優と呼ばれる、九代市川団十郎、五代尾上菊五郎、初代市川左団次が共演する、「正直清兵衛」、「太田道灌」、「戻駕」などを観劇した。先生はいたく感動したようで、このときのことを以下の七言絶句で表している。

 誰道名優技絶倫
 先生遊戯事尤新
 春風五十獨酔客
 却作梨園一酔人

(誰か道う名優の技は絶倫なりと/先生の遊戯事尤新たなり/春風五十独酔の客/却って梨園の一酔人と作る)

 

 

 これを機にまさしく「梨園の一酔人」になった先生は、演劇への関心を高め、足繁く劇場に通うようになり、また『時事新報』紙上で演劇に関する社説や漫言を次々と発表するようになった。

 

 

 時勢も西欧化の風潮の中で、同十九年八月、政府の肝いりで演劇改良会なる組織が結成されるなど、演劇改良運動が政治家や経済人によって展開されていた。先生の東京での初観劇の翌四月、麻布鳥居坂の外務大臣井上馨邸に設けられた仮設舞台で天覧歌舞伎が催され、梨園の地位は一気に向上した。井上邸での天覧歌舞伎から百二十年目にあたる平成十九年四月、井上邸跡地にある国際文化会館で行われた松竹大歌舞伎の「勧進帳」を今上天皇が鑑賞した。

 

 

新富座・歌舞伎座・明治座

 

 

 新富座は明治八年、京橋区新富町六丁目三六・三七番地(現中央区新富二丁目六番一号)に守田座を改称して設立された株式会社組織の劇場で、同十一年六月、ガス灯などを配備した近代劇場を新設し大々的な洋風開場式を行った。太政大臣三条実美をはじめ各外国公使らも貴賓として開場式に招待された。

 

 

 九代団十郎による活歴が行われるなど、明治時代中期の演劇改良運動の場となった。活歴とは、歌舞伎で在来の時代物の荒唐無稽を排し、史実を重んじて歴史上の風俗を再現しようとする演出様式のことである。新富座は関東大震災で被災後、再建されずそのまま廃絶した。現在は京橋税務署と東京都中央都税事務所が建っている。義塾出身者が経営陣に加わることも多かった。

 

 

 歌舞伎座は、新富座などに対抗する形で福地源一郎と金融業者の千葉勝五郎の共同経営で、明治二十二年、東京市京橋区木挽町(現中央区銀座四丁目十二番十五号)に開設された。照明には当時最新技術だった電灯を採用するなど、それまでの劇場をはるかにしのぐ近代劇場となり、これを危惧した新富座、中村座、市村座、千歳座が「四座同盟」を結成して開場当初の歌舞伎の興行に掣肘を加えるという一幕もあり、当初は激しい役者の奪い合いが行われたそうである。震災、戦災などで建て直しを繰り返し、今回五回目の改築となった。

 

 


新富座[大正年間](当時の絵葉書より)

 

 


初代歌舞伎座[明治後期](当時の絵葉書より)明治40 年の修繕改築後の様子

 

 

 明治二十三年十月、イギリス人曲芸師パーシバル・スペンサー(SPENCER, Percival Green) が、大観衆を前にガス気球に乗って遥か上空まで揚がり、落下傘に乗り換えて帰還する芸を日本各地で披露し話題になった。翌二十四年一月、歌舞伎座でこれを題材にした一幕二場の「風船乗評判高楼」が上演された。劇中、先生の発案で気球乗りスペンサーを演じる五代菊五郎に英語の演説をさせようと思いつき、早速素案を作成し、親しいユニテリアン派の牧師マッコーレーのチェックを受けて提供した。発音指導は先生の甥で、アメリカに留学して風刺漫画を学んできた今泉秀太郎が担当した。また気球が揚がるときに時事新報のチラシを客席に撒いてもらうというタイアップも手掛けた。

 

 明治座は、明治六年、日本橋久松町(現中央区日本橋浜町二丁目三一番一号)に喜昇座として創建された。初期には焼失と再建を繰り返しながら成長し、その度に名称も久松座、千歳座と目まぐるしく変っていった。明治二十六年に初代左団次が千歳座を買収して座元となり、これを明治座と改称し、現在に至っている。先生が明治座で観劇した記録は三回残っている。先生にとっての観劇は、社交の一つでもあった。芝居見物のときは家族や縁者、知人を誘っていくことがほとんどであった。

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