野口米次郎(ヨネ・ノグチ)
野口米次郎は、明治八年、愛知県海東郡津島町中島(現津島市)で、雑貨店を営む伝兵衛の四男として生まれる。八歳の頃から英語を学び始め、明治二十二年、愛知県尋常中学校(現旭丘高校)に進学するが、さらなる英語力の向上を目指して、翌年、十五歳で家出をして上京する。
同二十四年、慶應義塾に入学し、英米文学に夢中になり、渡米を決意する。
同二十六年、福澤先生に退学の挨拶に行くと、単身渡米する勇気に感心し、結局人生は一六勝負だと激励された。その場面を「蝋燭の光」で次のように記している。
「私の迎えられた部屋は薄暗かった。薄暗いも道理、部屋には一挺の蝋燭が隅の机の上に燃えているばかりであった。先生はその前にどかっと坐って、机の抽斗から自分の写真を出し、墨を磨って写真の裏に七言絶句一首を書いてくださった。私は蝋燭の光を受けた先生の横顔をぢっと見詰めた。先生の耳は大きかった。先生の首は太かった。私は蝋燭を見る度毎いつもこの場面を心に浮かべる」
アメリカで、英語力や生活費に悩まされながら、詩人ウォーキン・ミラーと出会い、同二十九年「Seenand Unseen(明界と幽界)」を皮切りに英語の詩集を発表し、ヨネ・ノグチとして賞賛を得る。そして、彼の不十分な英語力を補って、詩の添削、編集などを行っていたのが、レオニー・ギルモアであった。やがて二人は恋愛関係となる。
同三十七年、日露戦争勃発に際し、彼は帰国を決意した。彼は別の女性に求婚していたが、レオニーはヨネの子どもを身籠っていた。彼はレオニーを残して九月に帰国し、レオニーは十一月に男子を出産する。この子が後述するイサム・ノグチである。
米次郎は、帰国後、慶應義塾大学の英文学教授として、明治三十八年より昭和十七年まで教鞭をとった。英詩を作っていたが、それほど高い評価を得られず、「僕は英語にも日本語にも自信がない。云わば僕は二重国籍者だ」と記した『二重国籍の詩』が、皮肉にも高評価を得るという具合であった。詩作のかたわら日本文学・絵画を海外に紹介し、東西文化の懸け橋として活躍したが、昭和二十二年七月二十七日、満七十一歳で疎開先の茨城県豊岡にて胃ガンのため逝去する。
米次郎の生地、津島は、現在名古屋駅から名鉄で約三十分で行くことができる。津島は、かつて天王川(佐屋川支流)の津島湊と津島街道によって美濃と尾張を結ぶ要所として、また津島神社の門前町として栄えていた。今でも、格子戸の家、中にはうだつが上がった旧家が多く点在する。町内には、歴史的解説が多くなされている。
津島市本町四丁目二十二には「野口米次郎の生家」が残っている。子孫が所有しているが、既に二十年来無住で、かなり傷みが激しい。この先、どうなるか不安である。
三百メートルの川幅があった天王川は、土砂の堆積が進み、天明五(一七八五)年にせき止めて入江とした。これが現在の天王川公園の池になり、その中之島に昭和二十五年に建立された「ヨネ・ノグチ像」がある。台座に英詩「Lines(天地創造)」が刻まれ、書籍を携えて椅子に腰かけたヨネ像が置かれている。昭和二十七年、像を現在地に移転する式典に、イサムを招待したが、日本滞在中だったにもかかわらず、姿を見せなかったという。
彼の墓は、帰国後にすぐ上の兄祐真が住職となった縁で、半年間滞在していた藤沢の常光寺にある。

ヨネ・ノグチ像(津島市)
イサム・ノグチ
レオニー、イサム親子は、ロスアンゼルス郡パサディナに住んでいたが、ヨネからの来日要請と排日運動が盛んになったこともあって、明治四十年、イサム二歳のとき、母と共に来日するが、米次郎は、既に日本人女性まつ子と結婚していた。レオニーは、米次郎の詩を翻訳することで、生計を立てていたが、周囲は冷ややかで、イサムもいつも混血児という偏見でもって見られていた。
母は、十三歳になったイサムが混血児として日本で育つよりアメリカ人として育つ方がよいと決心し、また芸術はボーダレスであるからと、芸術家にさせるために渡米させた。ヨネは、日本を発つ船に乗り込んできて、引き留めたという。イサムはニューヨークのレオナルド・ダ・ビンチ美術学校入学、パリ留学を経て、抽象彫刻の分野で頭角を現わす。
昭和六年、来日前に父から「野口姓を名乗って日本に来てはいけない」と言われたにもかかわらず、父との再会を望み、二度目の来日をし、八か月滞在する。再会を果たしたものの、父への憐れみとうとましさ、そして日本への愛着と外国人であるという矛盾の感情を感じることになる。
舞台装置、壁画レリーフ、家具などのデザインを手がけ、彼の名声は確固たるものになる。日系人収容所に自ら志願して入所するなど、日本とアメリカの狭間で揺られながらも、終戦を迎え、昭和二十五年、三年前に父は亡くなっていたが、ヨネの妻、異母兄弟に出迎えられて、三度目の来日を果たす。来日四日目の五月六日、父が教鞭をとっていた三田の慶應義塾を訪れ、爆撃で廃墟になった学問の府を見て、「ここはアクロポリスだ」と語った。ちょうど、建築家谷口吉郎が、萬來舍(第二研究室)を設計中で、ここにイサムと谷口、同い年同士でデザインした談話室をつくることとなった。
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