木挽(こびき)町は、現在の中央区銀座一丁目から八丁目にかけての昭和通りを挟む東西の一帯を指した町名で、江戸初期に、江戸城大修理の工事に従う木挽き職人が多く住んだことに由来する。江戸時代からの劇場街で、現在改築中の歌舞伎座がある。福澤先生が藩命を受けて江戸に呼ばれたとき訪ねた、中津藩上屋敷も木挽町にあった。
南鍋(みなみなべ)町は、銀座五丁目六番地〜八番地にかけての旧町名で、幕府の御用鋳物師、長谷川豊後の拝領地とされたことから名付けられたとされている。
明治会堂・専修大学発祥の地
明治八(一八七五)年に三田演説館を開館した福澤先生は、慶應義塾外でも演説会場の必要性を感じていた。各種の演説会は、寺院あるいは料理屋の大広間で催される状況であった。十三年、先生は京橋区木挽町二丁目十四番地(現銀座三丁目十四・十五番地、歌舞伎座裏)の元東京府知事由利公正の邸宅地を購入し、明治会堂を建てた。馬場辰猪や矢野龍溪、藤田茂吉らと共に発起人となり、二万円を共同出資した。設計は、先生の父百助の妹、国(くに)の孫にあたり、工部大学校建築科を卒業した藤本寿吉であった。九月に始まった工事は奥平家出入りの棟梁がまとめ役となって進められ、十四年一月に落成した。瓦葺き木造二階建て、建坪六百二十平方メートルの擬洋風建築で、聴衆約千人を収容できる大講堂や食堂、会議室、事務室などを備えた。十五年の立憲改進党結党式や交詢社の大会もここで行われ、当時の東京唯一の公会堂として機能し、また演説家の檜舞台となった。
しかし、維持資金を含めて先生の負債が増大し、また当時流行の政府反対演説に対する当局者の干渉も増したため、十五年末に岩倉具視の仲介で農商務省に売却してしまった。以後は集会所や商品陳列館などとして利用され、名称も「厚生館」となった。三十四年には旅館「厚生館」となったが、関東大震災で焼失してしまった。
専修大学の母体は八年に日本人留学生によってアメリカ合衆国で結成された「日本法律会社」にまでさかのぼる。十二年に「日本法律会社」に所属していた相馬永胤(ながたね)と目賀田種太郎(めがたたねたろう)は、京橋区に法律事務所を開設、そこへほぼ同時期に帰国した田尻稲次郎と駒井重格が住むことになり、アメリカ留学時代に構想していた法律・経済を学ぶ教育機関の設立へと動き出した。
相馬ら四名の構想に賛同した福澤先生や箕作秋坪は、自身の経営する慶應義塾や三叉塾(さんしゃじゅく)を教育活動の場として提供し、同年十二月に慶應義塾夜間法律科、翌十三年一月に三塾法律経済科が開設された。さらに高橋一勝、山下雄太郎らが経営する東京攻法館法律科を統合する形で、同年九月に専修学校が設立された。仮校舎に当てたのは、後述する京橋区南鍋町の福澤先生所有の簿記講習所であった。一カ月後、明治会堂脇の明治会堂別館に本校舎を置き、本格的な授業を開始した。その後、明治十五年に神田区中猿楽町(現千代田区神田神保町)の現在の校舎に移転する。歌舞伎座裏の松屋通り沿いに「専修大学発祥の地」記念碑がある。

安達吟光「明治会堂之図」(専修大学大学史資料課所蔵)
商法講習所・簿記講習所
明治七年十月、森有礼(もりありのり)と塾員富田鉄之助は、福澤先生に商法講習所設立基金募集の趣意書の執筆を依頼した。快諾した先生は、「商学校ヲ建ルノ主意」という一文を執筆し、外国商人に対抗するには商学校を設立して外国の商法を研究しなければならない、と述べた。
翌八年、森は日本初の近代的商業教育機関として、商法講習所を設立した。校舎は当初、銀座尾張町二丁目二十三番地(現銀座六丁目十番地、松坂屋付近)にあった鯛味噌屋の二階を使用したが、九年に木挽町十丁目十三番地(現銀座六丁目十七番地、新橋演舞場隣りの日産自動車本館)の新築校舎に移転した。この校舎は後身の東京商業学校に引き継がれ、神田一ツ橋に移転する十八年九月まで使用された。経営は森の手を離れ、東京商法会議所、東京府、さらに農商務省へ移管され、現在の一橋大学となったのである。移転後の木挽町の跡地には農商務省の庁舎が置かれた。銀座通りの松坂屋前に、「商法講習所」の記念碑が一橋大学によって建てられている。
明治十二年からおよそ三年の間、福澤先生の出資で、社中の丹文次郎の弟竹田等が京橋区南鍋町一丁目四番地(現銀座五丁目五番地)に簿記講習所を開設し、先生の著作『帳合之法』などを教材とし、簿記法の普及を図った。開校の当日には、先生、加藤政之助、吉良亨らの演説が行われた。入学生は五百名前後に達したといわれている。十三年九月には専修学校が開校するにあたり、仮教場として一カ月ほど提供され、十四年には慶應義塾で学び、歯科医になった小幡英之助の診療所が移転してきた。
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