慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第56回――三田評論 2011年4月号    
 

日吉台地下壕

 
 
 
     
  都倉武之(慶應義塾福澤研究センター専任講師)  
     
 

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なぜ日吉に海軍が?

 話は太平洋戦争の後期、坂道を転がり落ちるように戦局が悪化していく頃である。昭和十八(一九四三)年十二月、在学中の学生は徴兵されないというそれまでの徴兵猶予が、文系学生について停止され、在学中であっても二十歳に達していれば徴兵されるいわゆる「学徒出陣」によって多くの学生が在籍のまま入隊していった。キャンパスに残されたのは二十歳(その後十九歳に引き下げ)に満たないか、病気などの理由により兵役に不適と判定された学生など少数で、校舎のほとんどは空教室となっていた。

 

 最初に日吉にやって来たのは、軍令部第三部である。軍令部は、海軍の作戦指揮を統括する機関で、第三部は情報収集を担当しており、米軍の本土空襲に備えて移転地を探していた。その中でも対米情報の収集に従事していた第五課に、当時の慶應義塾長小泉信三の長男信吉の同級生がいた。彼はある日課長の呼び出しを受けて、日吉校舎の貸与を小泉塾長に依頼するよう頼まれ、直接塾長に電話をしたと後に語っている。すでに文部省からは余裕のある建物を国に貸与するよう各大学に指示が出ており、空校舎の管理も行き届かないことから、小泉はこれを承諾する。 日吉の第一校舎(現塾高校舎)の南側半分に、霞ヶ関から軍令部第三部が移転してきたのは昭和十九年二月のことであった。同部の人々は近隣に下宿して教室で執務、校舎前には空襲時の待避用地下壕が掘削された(図2)。これが「日吉台地下壕」に数えられる壕のうち最初に掘られたものだが、小規模なもので地下壕掘削の先鞭をつけたに過ぎなかった。

 


日吉台地下壕分布図

 

 

連合艦隊、陸に上がる

 次に日吉校舎に目をつけたのは、連合艦隊司令部であった。時の司令長官は海軍大将豊田副武(そえむ)である。連合艦隊では諸艦艇を率いる旗艦(きかん)に司令長官が座乗することを伝統としたが、各地で進行する戦況の統一的指揮や、中央との十分な連携の必要から陸上移転がたびたび議論されていた。昭和十九年四月に旗艦となった軽巡洋艦大淀は、前例を破って木更津沖などに単独で碇泊していたが、六月のマリアナ沖海戦で航空母艦の多くが失われ、陸上基地から発進する航空部隊が主力となったため、いよいよ司令部の陸上移転論が力を増していった。

 

 移転候補地には、大倉山の精神文化研究所、東京町田の玉川学園、横浜航空隊(現横浜市金沢区)、日吉の義塾校舎の四カ所が挙がったと記録されている。ある日、大淀に乗艦していた慶應義塾出身の通信参謀附士官が司令長官に呼ばれ、上陸候補地に意見を求められた。彼はそこで、自分が寮生として過ごした日吉の寄宿舎を推薦し、早速上陸して参謀長と車で視察に出かけたという。参謀の一人中島親孝(ちかたか)の親戚にも塾員がいて、中島も日吉まで運動会見物に出掛けたことがあり、彼も日吉移転を強力に推した。結局電波状況の良い高台で、堅固な寄宿舎を活用できる日吉が最適との判断が下った。

 

 

 寄宿舎の悲運

 『慶應義塾百年史』は、明治期の塾生が記した「慶應義塾の寄宿舎は慶應義塾そのものである」との一文を引用して、「決して過言ではない」と記している。 義塾が「気品の泉源、智徳の模範」となることを意識するとき、それが育まれる場所は第一に、終日を塾内で過ごす寄宿舎であった。だからこそ寄宿舎は義塾においてとりわけ重視されていたのである。昭和十二年に完成した日吉寄宿舎は、三棟の寮舎と別棟の浴室からなり、建築家谷口吉郎の作品として名高い。当時は珍しい全室個室に床暖房、そしてローマ風呂と通称されたモダンな浴室などの設備は、今日でも遜色がなく、蛮カラ学生の巣窟である他大の寮とは全く趣を異にした。しかし残念なことにこの寄宿舎全体が正常に使用されたのは、わずか七年ほどに過ぎなかった。

 

 連合艦隊司令部が日吉寄宿舎に移転し、将旗を掲揚したのは十九年九月二十九日のことである。三棟の寮舎を改造し、「南寮」の二階に長官の執務室及び寝室を、「中寮」の一階食堂を作戦室にしたという。翌三十日、軍令部総長より昭和天皇に、司令部の日吉移転が上奏された。

 

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