塾蹴球部初勝利
日本のラグビーは、明治32(1899)年に慶應義塾で、英国人教師クラークの指導でチームが生れたのが最初であった。それから十年余りは、日本人のチームが生れなかったので、塾蹴球部は横浜や神戸の外国人チームと試合をしていただけであった。加えて、その実力の差は歴然で、十年近く連敗を繰り返した。明治41年11月16日付け朝日新聞には、「慶應大学クラブ創設後初めて勝利。対横浜外人ラグビー試合」として以下のように報じている。「慶大蹴球部選手は十四日三田網町のグラウンドに横浜外人の蹴球チームを迎えてフツトボール試合を挙行したり、(中略)試合は松岡氏のレフエリーにて慶軍より蹴始め直に中央線を突き破りて敵の陣地に突撃し数回のタツチダウンとスクラメーヂを演じて敵を圧迫し激戦廿分の後スリークオーターの飯塚トライをして三点を収めたるもトライ後のキツクは成功せず五分を経てスリークオーターの宮沢又もトライを為して三点を得たるが是又キツクは不成功に終わりたり、(中略)暫時休憩ハーフタイム後は陣地を交換し両軍ともフリーキツク一回宛を演じたる後慶軍はフオアワード柴田のトライにて又も三点を得、最後にスリークオーター竹野奮闘の後トライにて三点を得、キツクは成功せずしてタイムとなり十二点対零を以て慶軍の大勝となれり是慶大蹴球部創設後初めての勝利とて歓声わくが如く慶大野球部より寄贈の美麗なる花輪を受け手得々然たり」。
早慶ラグビー戦
大正11(1922)年11月23日には、綱町グラウンドで第1回の早慶ラグビー戦が開催された。その様子は、同29日付け『東京朝日』で以下のように報じられている。
「早稲田零敗す 全日本ラ式蹴球協会主催第一回早慶対抗戦は、二十三日午後二時半より三田慶應グラウンドに於いて開催されたが、早慶対抗と云うことに感興を引き、試合前に観衆は教室の屋根にもいっぱいであった。二時半、帝大の香山審判(レフェリー)、慶應のキックオフに試合は開始され、練習日浅き早稲田は先輩慶應に対して善戦したが及ばず、まず慶應の大市に美事トライされ、続いてゴールキック成功し五点を得られ、ハーフタイムとなり五分間休憩、三時五分開始、早稲田朝岡等勇猛に奮戦したが、慶應北野三時二十五分まずトライに続いて、宮地二回トライし、三時三十五分タイムとなり、ついに十四対零にて早大惨敗した。この日選手及び観衆極めて紳士的で、早慶野球中止にある皮肉を与えたのは愉快であった」。
明治39年の野球戦での応援を巡るトラブル以来、早慶両校のスポーツ交流禁止は、こうしてラグビーによって再開されたのであった。以降、関東大学対抗戦グループになった現在まで、早慶の定期戦は11月23日に行われている。
初の有料・背番号試合
大正13年、綱町グラウンドで行われた第3回早慶ラグビー戦は、入場制限のため日本の試合初の入場券が一枚30銭で販売されるとともに、国内最初の背番号が採用された。入場料徴収は、第2回の早慶戦でも検討されたが、慶應側の反対論が強く見送りとなっていた。急先鋒は、塾蹴球部の草創期の中心メンバーであった松岡正男。当時京城日報の社長として現在のソウルにいたが、電報で頻繁に反対意見を伝えた。後に初代黒黄会(蹴球部OB会)会長になった田辺九万三が、この時関西から高熱をおして夜行列車で上京、反対する現役の選手達を「先輩の多い慶應としては入場料をとらなくても試合が出来るが、他の新しいチームは財政的に困るだろう。使途の正しい入場料なら問題ないではないか」と説得し、初の有料試合を実現させた。試合当日、グラウンドには五千人のファンが詰めかけ満員となった。試合の収支計算書によると、入場券3585枚が販売され、収入は、1075円50銭、経費を差し引いた後、811円95銭を早稲田、慶應、そしてこの年に関東地区のラグビー統括機関として発足した関東ラグビー蹴球協会で三分された。
一方の背番号については、ラグビーの本国イギリスで、国際試合に選手のナンバリングが採用されたのは、大正9〜10(1920〜21)年のシーズンからなので、同13年の早慶戦で背番号が採用されたのは、かなり早い対応だといえる。

第1回早慶戦のメンバー
(『慶應義塾体育会蹴球部百年史』より
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