慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第53回    
 

綱町グラウンド(下)

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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早慶野球戦中断

 明治39(1906)年11月、早慶両校の応援団の異様な過熱ぶりに試合続行が不可能となり、以後20年間、早慶戦は長い中断を余儀なくされてしまう。その経緯を『時事新報』では以下のように記述している。「早大、慶應野球の無期延期慶應義塾野球部と早稲田大学野球部との競技試合は、第1回は慶應方の勝ち、第2回は早稲田方の勝ちとなり、いよいよ11日を以って第三回を慶應方運動場(グランド)に開き、両校選手の決勝試合を行うはずなりしかば、当日の状況こそ定めて壮観なるべしと人々も期待し、殊にその所属学校の生徒は、双方とも皆非常なる熱心を以って応援をなす模様にて、両三日来の意気込みを見るに、当日いわゆる応援を因として、いかなる不測の事態を発生するやも測り難き状あり。飽くまでも青年学生の元気を奨励せんとする子弟保護者としての責任上黙止すべからざるをもって、双方の監督、当事者の間にて協議の結果、第3回の決勝試合はいよいよ無期延期の事に決定したりと云う」。早慶野球戦の復活は、六大学野球連盟の発足する大正14(1925)年まで待たなければならなかった。

 

外国チームとの対戦

 このように早慶戦がいったん区切りを迎え、日本球界は俄然寂しいものとなるのであったが、その空白を埋めるかのように、慶應・早稲田の両校は外国チームを招いて試合を行うようになる。明治40年10月31日、塾野球部がハワイからのセミプロの連合チーム「セントルイス」を招いて綱町グラウンドで試合を行った。11月19日までに塾野球部は5戦2勝3敗、早稲田は三戦全敗したが、このセントルイス戦が、日本で初めての「有料試合」であった。

 

「この壮快にして前未曾有なる試合行わるるは、来る三十一日午後一時なれば入場者はその心組にて左の数ヶ所にて売り出せる切符を買い求めるべし。(中略)切符代は一等六〇銭、二等三〇銭、三等一〇銭にして早く買い求めざれば売り切れの恐れあるべし」(『時事新報』明治40年10月28日号)とあるとおり、塾野球部は、セントルイスを招待した費用を得るために、米一升が十六銭であった当時としては高い入場料をとることとなった。一、三塁のスタンドも建設され、グラウンド整備も行われた。この試合は帝都の注目を集め、有料試合にもかかわらず車夫から陸海軍軍人、更には皇族まであらゆる階層の人々がつめかけ、実に一万人もの観客がつめかけたのであった。第一試合は延長13回、5対3で塾野球部の勝利となった。このとき日本の野球は「見せる野球」という新たな局面を迎えたと同時に、スポーツ興行化の第一歩を踏み出す結果となったのである。この「有料試合」のシステムは、翌明治41年、早稲田がワシントン州立大チームを招いたときも同様に行われた。

 

アメリカ大リーグ2チームが初来日

 大正2(1913)年12月6日、オフシーズンを利用して、ニューヨーク・ジャイアンツ(紐育巨人軍)とシカゴ・ホワイトソックス(市俄古白靴下軍)合同の世界周遊野球団二十五名が初来日する。当時のジャイアンツ監督はジョン・マグロー、明治35(1902)年途中から監督に就任して、昭和7(1932)年、病気で引退するまでにリーグ優勝11回、ワールドチャンピオン三回の名監督で、来日時はリーグ三連覇を成し遂げたばかりの全盛時代であった。当時の日本でも人気は高く、「紐育巨人軍」、「マグロー将軍」という活字がしばしば新聞に載っている。この両チームはオフシーズンの間にまだ大リーグを見たことのない全米各地の中都市を転戦して費用を集め、合同で世界一周に旅立っていた。訪問先は日本、中国、オーストラリア、エジプト、フランス、イギリスで、最初の訪問国が日本であった。

 12月6日午後2時10分試合開始のこの両チームの綱町グラウンドでの対戦が、日本における初めての大リーグチーム同士の対戦であった。鎌田栄吉塾長が始球式のボールを投げ、結果は九対四でホワイトソックスの勝利。翌7日には、午前10時30分開始の第一試合で、この両チームの連合軍と塾野球部が対戦している。塾野球部の投手は当時日本一といわれ、この年の九月に来日したワシントン大学チームを被安打4、3振10で完封した菅瀬一馬であった。だが相手が大リーガーのオールスター級ともなるとさすがに勝負にならず、16対3で完敗している。午後2時10分プレーボールの第2試合で、ジャイアンツとホワイトソックスの再試合が行われ、12対9でホワイトソックスが連勝している。この第2試合で、ジャイアンツの一塁手フレッド・マークルが、「左翼の垣根を越へて球は芝から麻布まで届いた」(『東京日日新聞』大正2年12月8日号)古川越えの大ホームランを放ったのも、ここ綱町グラウンドであった。この来日でメジャーの選手から直接コーチを受けた義塾野球部は近代野球の扉を大きく開き、一段と飛躍していくことになった。

 

アメリカ大リーグ2チームが初来日

 蜂須賀家は、なぜ敷地の土地売却を考えていたのであろうか。当時の当主茂詔は、弘化三(一八四六)年に阿波国徳島藩の第十三代藩主蜂須賀斉裕の次男として生まれた。慶応四(一八六八)年一月、父の急死により家督を継ぎ、明治二(一八六九)年、版籍奉還にともない徳島藩知事となった。明治五年、茂韶はイギリスに留学し、帰国後は、大蔵省関税局長、参事院議官、元老院議官、東京府知事、貴族院議長、文相、枢密顧問官などを歴任した。同十七年、侯爵となり、華族資産の有効活用を主張して、同二十二年、公爵三條実美らと共同し、北海道雨龍(うりゅう)平野(現雨竜郡雨竜町)で政府から土地の貸し付けを受けて、アメリカ式の大規模牧場である「華族組合雨龍農場」の経営を始めたが、三條の死と労働力不足などから一旦中絶を余儀なくされた。茂韶は、同二十六年三月、華族組合雨龍農場を解散し、新たに単独で「蜂須賀農場」を設立させた。
 小作経営に変更する一方、私費を投じて灌漑用水工事を行い、雨龍開拓の基礎を築き再興させたのである。こうした牧場開発の資金源を得るため、蜂須賀家では、綱町の敷地の売却を画策していたのである。

 農場は、本州から入植者を募集して小作人が年々増加し、大正期には九百戸を超えた。その後、茂韶、正韶(まさあき)、正と三代にわたり支配された農場の収入は村の予算を超え、行政へも強い影響力を持ち「御農場」と呼ばれた。しかし、同時に小作料をめぐる間題も次第に表面化し、争議が頻発した。昭和二十二(一九四七)年、農地解放により蜂須賀農場は解散した。明治二十七年に農場の場長住宅として建設された建物が、保存改修され、現在は雨竜町開拓記念館となっている。

 

対セントルイス戦 (『慶應義塾野球部百年史』より)
対セントルイス戦
(『慶應義塾野球部百年史』より)

 

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──能代・弘前・木造


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