慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

慶應義塾の風景
三田評論表紙
2016年7月号表紙


space今月の特集spaceKEIO PHOTO REPORTspace立ち読みspace三田評論とはspace次号予告space前号紹介spaceバックナンバーspace講読方法space
  メインページ->立ち読み  
  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第53回    
 

綱町グラウンド(上)

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

12
 
 

三田綱町

 現在の三田二丁目は、かつて「三田綱町」と呼ばれ、現在でもビルなどの名に「綱町」の名が残っている。源頼光の四天王の一人で、大江山の酒呑童子退治で有名な平安時代の武将、渡辺綱(わたなべのつな)生誕の地との伝説に由来するもので、周辺には、「綱坂(つなざか)」、「綱の手引き坂」などがある。江戸後期、女子高から中等部の敷地だけでなく、西は綱町グラウンドを含んで古川の河岸まで、東は三井倶楽部の南半分を含んで綱坂までの綱町一帯は、陸奥会津藩松平肥後守二十三万石の下屋敷であった。明治新政府の発足に伴い、それまで諸国の大名が持っていた上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つの内一つを残してあとは上地させる旨の取決めがなされ、多くの大名屋敷が華族や軍人、官吏、実業家に払い下げられた。会津藩下屋敷も、徳川伯爵家(旧御三卿)や鍋島子爵家(旧肥前鹿島藩)、蜂須賀侯爵家(旧徳島藩)などの邸宅となった。

 

綱町グラウンド購入

 福澤先生の「先づ獣身を成して後に人心を養ふ」(『福翁百話』)の精神から、義塾は、早期から、教育方針の一環として、「体育」、「運動」に重きをおいていた。義塾がまだ新銭座にあった頃から、規則の中で「ジムナスチックの法」を定めて西洋流の体育思想をとり入れ、庭を運動場として、そこにシーソー・ブランコ等の運動施設を整えていた。三田に移転後も、福澤先生が自ら乗馬、居合、米つき、散歩等をおこない、絶えず運動を怠らぬばかりか、塾生にもさかんに運動をすすめて、さまざまな運動施設を備えつけたのである。

 そのための施設として、初め三田山上の稲荷山北側の広場(現在大学院棟のある辺り)が運動場としてあてられていた。しかし、明治二十(一八八七)年代以降、あいついで行われた校舎の増築のため手狭となり、新たな運動場の設置が望まれるようになった。

 一方、学生野球はそれまで一高が全盛を誇っていたが、塾野球部が台頭し始めていた。塾出身の名取和作が経済学専攻のためにアメリカに行った際、すっかり野球通になって帰ってきた。当時のアメリカはメジャーリーグの過渡期で、大学チームの旺盛時代であった。名取が明治三十五(一九〇二)年に帰国すると、大学教授となるとともに野球部長になった。名取は、塾生に新しい戦法だけでなく、メジャーリーグやアメリカの学生生活を語り、塾生もそれに感化された。そして一つの問題点としてグラウンドの整備があげられたのであった。話題になったのは、アメリカやドイツの各大学が持つスタジアムの荘厳さである。大学の教室が智の殿堂であるならば、グラウンドは武の道場である。智育体育の並立がやがて完全なる一個の人格を築くということから、義塾は単に教室の美を飾るばかりでなく、運動場も共に広めねばならぬといったことが高唱された。体育会関係者はこの好機とばかり運動し、宣伝に努めた。神戸寅次郎、気賀勘重、川合貞一の各教授までが足並みを靹えた。慶應義塾評議員会では教場増設や実業学校の新設と共に運動場を拡張するか、新運動場を別の場所に開拓するかを議論した。そして満場一致で新運動場を設けることとなり、稲荷山のグラウンド跡へは教場を増設することになった。しかし当時の義塾にとって、それは容易ならぬ大事業であった。福澤先生への恩賜金五万円を義塾へ寄附し、更に先生の没後基本金の募集をして、それらを合わせて三十八万円を用意したが、諸経費に半分は消えて行き、尚義塾の経費は年々一万五、六千円の不足であったので、これを如何にして補頡して行くかについて大問題となっている
折であった。

 苦しい予算から新運動場購入の費用を捻出させることに定まると共に、その候補地を探したが、なるべく学校の隣接地という条件だとなかなか見つからなかった。その時、義塾のすぐ西側の三田綱町に居を構えていた侯爵蜂須賀茂もち韶あきが、その所有地の一部、庭園裏にある森、三千八百七十四坪余り(約一万二千八百平方メートル)を分割して売却しようとしていたため、渡りに舟とばかりに明治三十六(一九〇三)年十二月、急遽、塾長鎌田栄吉名義にて坪七円で買い受け、これを義塾の運動場とした。これが現在の綱町グラウンドである。二百年余り斧ふ鉞えつを入れたことのない小丘は次第に樹木が伐られ、土地を均されて明るくなっていった。ダイヤモンドは、掘り返された部分に土砂が半々に入れられた上に設けられた。

 その後、大正三(一九一四)年に義塾の名義になり、同七年に四百三十七坪(千四百四十二平方メートル)、同十三年に二百二十五坪(約七百四十平方メートル)を買い足して、現在の広さになった。運動施設も、明治三十七(一九〇四)年には、柔道・剣道・弓術の各道場と兵器室が、翌三十八年には、フットボール控室が建設された。現在の敷地面積は、約四千二百坪(約一万三千八百六十平方メートル)となっている。

 グラウンド入口正面にあった道場は、一一九畳の広さを誇る柔道場を有する文化財的価値をもつ柔・剣道場であった。しかし、建築後八十年を越え、年とともに老朽化が進んだため、平成五(一九九三)年一月、体育会創立百周年記念事業の一環として、一階に柔道場と剣道場、二階に弓道場を持つ鉄筋コンクリートの新道場として改築された。

 

蜂須賀家のお家事情

 蜂須賀家は、なぜ敷地の土地売却を考えていたのであろうか。当時の当主茂詔は、弘化三(一八四六)年に阿波国徳島藩の第十三代藩主蜂須賀斉裕の次男として生まれた。慶応四(一八六八)年一月、父の急死により家督を継ぎ、明治二(一八六九)年、版籍奉還にともない徳島藩知事となった。明治五年、茂韶はイギリスに留学し、帰国後は、大蔵省関税局長、参事院議官、元老院議官、東京府知事、貴族院議長、文相、枢密顧問官などを歴任した。同十七年、侯爵となり、華族資産の有効活用を主張して、同二十二年、公爵三條実美らと共同し、北海道雨龍(うりゅう)平野(現雨竜郡雨竜町)で政府から土地の貸し付けを受けて、アメリカ式の大規模牧場である「華族組合雨龍農場」の経営を始めたが、三條の死と労働力不足などから一旦中絶を余儀なくされた。茂韶は、同二十六年三月、華族組合雨龍農場を解散し、新たに単独で「蜂須賀農場」を設立させた。
 小作経営に変更する一方、私費を投じて灌漑用水工事を行い、雨龍開拓の基礎を築き再興させたのである。こうした牧場開発の資金源を得るため、蜂須賀家では、綱町の敷地の売却を画策していたのである。

 農場は、本州から入植者を募集して小作人が年々増加し、大正期には九百戸を超えた。その後、茂韶、正韶(まさあき)、正と三代にわたり支配された農場の収入は村の予算を超え、行政へも強い影響力を持ち「御農場」と呼ばれた。しかし、同時に小作料をめぐる間題も次第に表面化し、争議が頻発した。昭和二十二(一九四七)年、農地解放により蜂須賀農場は解散した。明治二十七年に農場の場長住宅として建設された建物が、保存改修され、現在は雨竜町開拓記念館となっている。

 

蝦蟇塚
蜂須賀茂韶
(国立国会図書館蔵)

 

line

 

これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

これ以前の連載はこちら

 
 
   
line  
 
 
 
  12  
 
TOPへ戻る
 

 

 
Copyright (C)2004-2010 Keio University Press Inc. All rights reserved.