慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第52回    
 

蝦蟇(がま)と三色旗

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾大学看護医療学部教授)  
     
 

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加藤元一先生之像

 信濃町キャンパスの新教育研究棟の一階の入り口に、武見太郎の筆で「加藤元一先生之像」と刻まれた胸像がある。元々は、生理学教室の入っていた基礎医学第一校舎の前庭にあったもので、建て替えの際に、今の位置に移った。胸像には次の碑文が添えられている。

 

加藤元一先生之像

 

不減衰之記

加藤元一先生、大正六年慶應義塾に医学部創設さるゝや、弱冠二十八歳にして生理学教授とならる。昭和二年「不減衰傳導学説」に対して帝国学士院賞を授与させらる。続いてノーベル賞候補に挙る事再度、その学勲内外に高し。昭和十九年三月義塾に医学専門部、開設されるやその長となり、昭和二十七年三月同部を閉ずるまでの間、四百六十六名の人材を育成し、慶應医学にあらたなる活力を加えたり。この間の教育者としての情熱、蓋し不減衰傳導学説樹立にも勝るものあり。


茲に我等卒業生その徳を仰ぎ、その情を慕い且つその智を敬してこの像を建つ。

昭和四十一年文化の日
慶應義塾大学附属医学専門部 卒業生一同

 

 

 実は、この碑は、単に研究者としての加藤を顕彰するためにのみ作られたものではない。この碑の建立が「慶應義塾大学附属医学専門部卒業生一同」によってなされたことに大きな意味がある。

 

 

 太平洋戦争の拡大と共に軍医が不足することになる。そこで、文部省の依頼に応える形で作られたのが医学専門部であった。予科の課程を大幅に圧縮し、医学部に比べ二年短い五年で医師を育成するもので、その部長を務めたのが加藤であった。

 

 

 昭和十九年に開設された医学専門部は、時代の荒波に翻弄されながらも、よくその学生を支え、優れた医師を輩出した。空襲による信濃町の甚大な損害、山形県大石田町への学生疎開、終戦後の武蔵野分校と、授業や臨床実習をする場の確保にも苦労があった。また、組織上も、歯科医学専門学校卒業者に医師資格を与えるために一年間で教育する臨時科の開設(昭和二十年三月)、終戦後のGHQの要請による就業年限の延長等の変更があった。最終的には戦後の学制改革において、医学は全て大学教育とし専門学校教育を認めないことが決定したことから、医学専門部はその使命を終えて、四回目の卒業生を春に送り出した昭和二十六年六月に北里講堂で「医学専門部解散記念式」が行われたのであった(卒業事務の遅れた学生に対応し全ての学務を終えたのは二十七年三月)。閉校に合わせて組織された医学専門部史編纂委員会による『慶応義塾大学附属医学専門部史』に掲載された記録と多くの教職員と卒業生の随想を読む時、加藤の胸像は、単に加藤一人の胸像ではなく、医学専門部の記念碑であることがよくわかるのである。

 

 

 今日、信濃町キャンパスで、戦時下の苦労を偲ぶものは他に殆どない。しかし、空襲の激しさを偲ばせるものが一つ残っているので併せて紹介したい。それは、衛生学公衆衛生学教室等が入る予防医学校舎の玄関車寄せにある。よく足元を見ると、六角形の痕を二つ見つけることができる。六本の細長い円筒を束ねた焼夷弾の痕である。当時を知る人達は、学生達が火災から守り通した別館の屋上にもかつては無数の痕があったのに、ある時、全て再塗装されてしまったことを嘆いていたものである。予防校舎前の焼夷弾の痕は、学生に当時の苦労を伝えるためにも、大切に残したいものだと思う。

 

 

 加藤は、「三色旗のあるところ加藤あり」と言われる人でもあった。昭和八年、今日の応援指導部につながる応援部が組織された際に塾長林毅陸より委嘱されて以来、二十七年に亘り応援指導部長を務め、早慶戦には常に加藤の姿があったという。昭和三十二年の大学入学式で教授代表として祝辞を述べた際、関東大震災で、東大の鉄筋の校舎は焼けたのに対して、木造の塾の校舎が焼けなかったことを例に挙げて、「愛塾の精神」の尊さを語った。そして、次のように語りかけたのであった。

 

 

 「愛塾の心!それは諸君が入学して先ず体得すべき第一のものである。しかしこの愛塾の心は、私が、また塾長や学部長が、壇上から「塾を愛せよ」と幾度呼んで見ても大した効果はない。この心は外からかけたメッキでは駄目なのだ。つけやいばで駄目である。自分の心の奥底から自然に湧き出るものでなくてはならない。然らば左様のことが果して出来るか。然り可能である。ここに早慶戦がある。(略)見守る数万の観衆、投手の一投、一球に共に喜び、共に憂える。塾につながる総ての心が鼓動を一つにしてこのように緊張する一時が他にあろうか。美しいではないか、その間に何等の邪念もない、微塵の私心もない。あるのはただ「塾を勝たせたい」と思う心のみである。ここに無意識のうちに自ずと心の底から湧いて出るのである。この愛塾心はメッキではない。」

 

 

 今秋の優勝をかけた早慶戦、神宮球場を埋めつくした人々の中で、この言葉が私の頭をよぎったのであった。

 

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2015年4月号掲載

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2015年2月号掲載

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