慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第51回    
 

天現寺界隈、そして幼稚舎

 
 
 
     
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

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  広尾別邸の東隣には水車があり、この土地を先生は水車を含めて明治17年7月頃に取得し、その後も水車は元の持ち主に貸し出している。

 

 福澤時太郎氏は『三田評論』昭和50年4月号「天現寺別邸」で別邸内の様子を次のように書かれている。

 

 「ここから西の方にだんだんと下り、その下り切ったところに幅一米たらずの小川があり、水車小屋もあって萬蔵という別荘番が米を搗いていた。(中略)小川には小鮒、メダカ、タナゴ、小蝦と色々いたので、我々には面白くて仕方なく、時のたつのも忘れて魚とりに夢中だった。地下水の集りであるこの小川はとても冷たく、夏などはとてもよい気持であった。この小川は古川に注いでいたが、当時の古川は今のようなあんな汚い溝川ではなく、鮎が沢山いた。」

 

 広尾別邸の中に三田用水白金分水の流路があり、古川に注いでいた。今、理科園中央を東西に下水管が走り、この部分が財務省所有の土地になっている。狸橋よりやや下流の護岸壁に四角い口が見えるが、これが三田用水白金分水の排水口である。また、現幼稚舎小体育館裏の古川護岸壁に、常に水が流れ落ちている管がある。元幼稚舎長川崎悟郎氏は、戦後間もない頃、この水が冷たいので上から西瓜を吊るして、冷やしていたという。地下水の流れと思われる。時太郎氏の言う小川は、どれであろうか。

 

 また、先生は明治28、9年に現在の広尾都営アパートの辺りに、笄川の水を利用した水車を購入している。この水車に関して、先生が南郡豊島渋谷村長宛に名義変更と引き続き水車の営業許可を願い出た「水車名前換並継年営業願」が東京都公文書館に残っている。

 

 先生は、先の狸蕎麦の水車に東隣した下野大田原藩下屋敷の敷地(現在北里研究所病院)を、明治21年に購入。26年創設の北里柴三郎の結核療養施設養生園に貸し出している。さらに養生園のために、26年、28年、29年と周囲の土地を順次買い足していっている。先生は、「養生園貸地証」を入れた封筒に27年2月25日付で、次のように子孫に言い伝えている。

 

 「北里氏へ地面を貸したるは学問上の好意に出たることなれば、地代は随時の商況に由り昇ることある可きも、無理に退去を促す等不法の請求は断じて行ふ可からず。子孫慎て此を忘るゝ勿れ」。

 

 『慶應義塾百年史』の年表、大正4年8月23日に次の記述がある。

 

  「寄宿舎建設用敷地として府下豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字広尾耕地、三千二百四十坪余を東京市より買入れ(十月十五日、登記完了。六年二月、同耕地百七十坪を買い足し、総坪数四千四百十坪)」。

 

 大正5年5月7日には、

 

 「慶應橋開通。古川を越え、六年九月竣工の広尾寄宿舎に通ず」

 

  大正6年9月には、

 

  「広尾寄宿舎竣工。総延坪千六百六坪、寮舎は六棟よりなり北三寮を大人寮、南三寮を中幼年寮とす。中央寮に消費組合販売部を新設。構内入口には舎生の娯楽に供するため二階建の倶楽部を新築(十日より舎生を収容。十一月十一日、新築祝賀茶話会。六年四月着工(後略))」

 

 とある。すなわち、現幼稚舎の渋谷区部分に慶應義塾の寄宿舎が完成し、その寄宿舎だけに通じる慶應橋が、古川に架けられたということである。

 

幼稚舎の移転

 一方、幼稚舎は明治31年、三田山上から現在の三田キャンパス西校舎崖下に移転したが、さらなる生徒数の増加でこれまた狭隘になり、しかも建物が老朽化していた。そこへ昭和九年九月、台風が京阪地方を襲い、大阪市内の小学校が50校も倒壊する事件が起こった。事態を憂慮した小泉信三塾長は同年10月の評議員会において「幼稚舎は技術調査の結果、建物古くして到底現状のまゝに放置し得ざるの状態にあり」と発言し、広尾の寄宿舎の敷地に移転が決定した。この地に、新進気鋭の建築家谷口吉郎氏の設計により現在の本館が完成、昭和11年9月に4、5、6年生が新校舎に移り、全館完成と共に、翌12年1月、1、2、3年生も移転した。

 

 この時に、広尾別邸は幼稚舎に寄贈され、「福澤記念館」として小柴、清岡主任(舎長)の頃、主任による講堂修身の授業などに使われた。幼稚舎六年生として新校舎に移った川崎悟郎氏は、「幼稚舎グラウンド中央に福澤邸の塀があり、今もグラウンド中央にあるけやきは、塀の向こう側にあった。そして12年3月にその塀が取り壊され、福澤記念館へ行けるようになった。」と語っている。戦後は、幼稚舎教員の住宅として使用していたが、昭和四十一年三月、首都高速道路の建設で幼稚舎の敷地が分断された時に取り壊され、現在その跡地に当たる飛び地(理科園)にはプール、ビオトープ、畑が設けられている。私が幼稚舎生だった頃は、幼稚舎の林佐一先生御家族が住まわれていて、私もお邪魔したことがあるが、大きくて立派だが、天井が高くて暗いお屋敷だった記憶がある。取り壊してしまったことを本当に惜しく思う。

 

 しかし、現幼稚舎新体育館、そして新館21と自尊館にはさまれた所には、依然として福澤邸があった。先生の令孫八十吉氏が住まわれており、八十吉氏の令息範一郎氏(昭和17年幼稚舎卒)は、この邸宅から塀を潜って幼稚舎に通っていたとお話されていた。昭和29年の幼稚舎創立八十周年の記念事業の一環として、新館21と自尊館にはさまれた福澤家の敷地約879坪を幼稚舎が譲り受け、敷地内にあった蔵を古川沿いに移築し、昭和33年にその跡地にプール(現存しない)を建設した。

 

 さらに昭和42年8月、首都高速道路建設に伴い、福澤範一郎氏が住まわれていた現新体育館辺りの土地を慶應義塾が購入し、幼稚舎は現在の敷地となった。

 

 福澤家の蔵も、幼稚舎が譲り受け、幼稚舎の舎史資料庫となっていたが、平成11年、新館21の建設の際に取り壊された。しかし、福澤家の蔵を取り壊すのは惜しいという声が上がり、現在井の頭公園前のおこわ米八本店(武蔵野市吉祥寺南町1-21-4)に移築され、綺麗にリニューアルされている。ただ、この蔵は時々個展などに利用されるが、通常は内部非公開で、店舗営業も花見の期間だけだという。

 

 

 

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