慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第50回    
 

文学の丘(その2)――久保田万太郎句碑

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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1. 出生から普通部編入まで

 久保田万太郎は、明治22(1889)年、浅草田原町の袋物製造販売を業とする父勘五郎、母ふさの次男(長男は夭逝)として生まれた。馬道の尋常高等小学校から府立三中(現両国高校)に進むが、文学に没頭し、4年に進級の際代数の成績が悪く落第してしまい、慶應義塾普通部の3年へ編入することになった。しかし、「普通部の、いふところの塾生たちの放漫な空気のなかに、いつになっても」(「『町』の子供たち」)溶け込めず、俳句を作り始める。

 

 

2. 「VIRIBUS UNITIS」の石碑

 万太郎は、明治42(1909)年、普通部の課程を修了する。このときの卒業生たちが、「VIRIBUS UNITIS」(フィリブス・ウニティス)と刻まれた小さな石碑を三田の構内に建立した。これが塾監局東側入口の南脇に据えられている。碑文はラテン語で「力を合わせて」、あるいは「合わせたる力もて」という意味である。因みにこの言葉は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝で、芝居などで度々取り上げられる美貌の皇后エリザベートの夫、フランツ・ヨーゼフ一世(1830〜1916年)の座右の銘でもある。当時の普通部生がこのことを意識してこの碑文を選んだのかは定かではないが、1911年に進水したオーストリア・ハンガリー帝国海軍の弩級戦艦の名前にもなった、同時代の二重帝国皇帝のモットーと同じ言葉であることは興味深い。

ストランドのキングス・コレッジ
 
「VIRIBUS UNITIS」の石碑

 

 

 

3、大学予科入学から文壇デビューへ

 家業を継がせようとする両親を祖母が説得し、慶應義塾大学予科へ進学した万太郎は、文学科を選ぶ。「お前、文学をやるんなら、わるいことはいはないから、早稲田へ行けよ、と、ほん気でいつてくれる仲間もあった。が、こつちにすると、ほんきで文学をやるつもりはなく、徴兵猶予の切れるまでの期間を、たゞすこしでも、好きな道でみちくさが喰ひたかつたからである」(「私の履歴書」)という消極的な選択であった。文学に対する「せめてもの心ゆかせで」、三田俳句会などで俳句を作り続けた。

 

 しかし、その翌年の明治43年、文学科における改革と出会ったことが、万太郎のその後の運命を決めることになる。この年の2月に、森鏗外、上田敏を文学科顧問に迎え、永井荷風、小山内薫の招聘を決定した義塾文学科は、文壇との結びつきを持つようになった。加えて、五月には荷風が編集主幹を務める『三田文学』が創刊された。「作家たらんとする志やうやくうご」いた万太郎は、俳句を捨て、永井荷風と泉鏡花を師と仰ぎ、小説家への道を進み始めた。翌44年に、早くも小説「朝顔」や、戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表した。同じ年に小説「山の手の子」が『三田文学』に掲載された水上瀧太郎や、後に塾長となる小泉信三らと知己となった。大正3(1914)年に大学部を卒業したが、家業が傾き田原町の実家を手放すことになり、駒形へ転居して執筆活動を中心とした生活を送ることになるが、活の場を得ることは少なかった。

 

 

4、義塾の教壇に立つ

 大正8(1919)年芸妓をしていた京と結婚し、安定した生活をしなければならなくなった万太郎は、慶應義塾の嘱託として、文学部予科の作文を担当するようになる。三田文学の世話人、また、國民文藝會の理事、演劇雑誌「新演藝」の合評会のメンバーとしての活動も始めた。

 

 結婚の前年、隣家からの出火で駒形の家を失うまでの数年間は、「わたくしにとつて、八方ふさがりの、手も足もでない、わるいことだらけの時代だった」(『久保田万太郎全集』第二巻後記)と本人が回想するほど、作品は評価されず、万太郎に理解のあった祖母や妹の死、失恋を経験し、友人であった水上や小泉も海外に渡航しており、一人苦悩の日々が続いたのである。このとき、一旦捨てたはずの俳句を再び作ることになる。

 

 義塾で万太郎の講義を受けたのは、奥野信太郎、青柳瑞穂、北村小松、石坂洋次郎らがいる。奥野や青柳の回想によると、入学当初(大正9年)は、各科共通の課題が塾監局から出て、文学科では講師であった水木京太が教室に来て黒板に「病気の友を見舞う文」、「第二学期をむかえて」といった題目を書き、予科生全員が書いた作文を提出すると、それが採点されて返されるといったものであった。文学科の作文の評価が厳しく、誰が採点しているのかと話題になっていたところ、二学期になって文学科だけ特別扱いになり、隔週一回、万太郎が教室に来て、即題で作文を書くことになった。題目は、「三田の文科にはひつたわけ」、「帽子」、「雨」などであったという。

 

 講義中の姿はほとんどが和服で、「黒ずんだネズミ色のセル袴をはき、履物は恐らく教員室備付のものであろう赤い鼻緒の安物の麻裏草履」(戸板康二『久保田万太郎』)であった。ときには洋服を着ることもあったが、焦げ茶色の「新しい上等品ではなさそうな」背広に、「樽抜きの渋柿のような独特の黄色いキッドの靴」という井出達であった。

 

 

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