慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

慶應義塾の風景
三田評論表紙
2016年7月号表紙


space今月の特集spaceKEIO PHOTO REPORTspace立ち読みspace三田評論とはspace次号予告space前号紹介spaceバックナンバーspace講読方法space
  メインページ->立ち読み  
  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第49回    
 

ロンドン(その四)

  ――キングス・コレッジ・スクールとロイヤル・アーセナル

 
 
 
     
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

12
 
 

キングス・コレッジ・スクール

 福澤先生の滞欧日記『西航記』文久2年4月21日(西暦1862年5月21日)に、次のように記されている。

 

  「ドクトルチャンブルスと共、キングスコルレージ学校に至り」

 

 先生の滞欧メモ『西航手帳』には、「キングスコルレージ 4月18日 9〜18age 420人 9時より3時 まで」というメモがあり、先生の代表的著作『西洋事情』にも次のような記述がある。

 

  「或は一所の学校にて大小相兼るものあり。龍動(ロンドン)「キングスコルレージ」(府中最も大なる学校の名)の如きは、学生五百人余ありて、楼上は大学校の教を授け、楼下は小学校の教を設く」先生が訪れたKing’s College School(以下KCS)は、ロンドン地下鉄オルドウィッチ(Aldwych)駅の近くストランド通り(Strand)に面したサマーセットハウス(Somerset House)の一角にあった。

 

 サマーセットハウスは1543年に建てられたルネッサンス風の宮殿で、1824年に東のウイングが増築され、この部分に1829年、国王ジョージ4世の命を受けて英国国教会によってキングス・コレッジという大学が創設された。現在もここはキングス・コレッジのストランド・キャンパスであり、サマーセットハウス本館は一九九〇年よりコートールド・ギャラリー(Courtauld Gallery)という美術館になっている。

 

 この美術館は、ロンドン大学附属の美術館で、世界屈指の印象派のコレクションを有している。 KCSは、キングス・コレッジに進学する生徒を育成するため、キングス・コレッジ創設の1829年の8月14日に85人の生徒をもって設立され、キングス・コレッジの階下にあった。1843年には約500名の生徒を数えて狭隘になり、都会の真ん中という不適当な環境にもあって、1897年ロンドン南西郊外のウインブルドンに移転した。

 

  London Waterloo駅からウインブルドン駅まで列車で約15分。KCSは、駅から徒歩20Southside,Wimbledon Common Londonにある。

 

 1912年にジュニアスクールとシニアスクールに分かれ、現在ジュニアは7〜13歳の男子、シニアは13〜18歳の男子が在籍し、この9月からSixth Form(16〜18歳)に女子を受け入れる。生徒は全て通学生である。KCSは日本で言えば、さしずめ私立の小・中・高等学校に当たり、学力レベルも大変高く、評価の高い学校になっているが、ウィンブルドンに移転以来キングス・コレッジ大学との特別な関係はなくなっている。

 

ストランドのキングス・コレッジ
 
ストランドのキングス・コレッジ

 

 KCSは、イギリスで私立名門中・高等学校を意味するパブリック・スクールに当たる。慶應4(1868)年、先生は塾の新銭座への移転、慶應義塾の命名に際し、慶應義塾の独立宣言とも言うべき『慶應義塾之記』を著しているが、その中に次の記述がある。

 

  「蓋(けだし)此学を世に拡めんには、学校の規則を彼に取り、生徒を教道するを先務とす。仍よって我党の士、相与(あととも)に謀りて、私に彼の共立学校の制に傚(なら)ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く。」

 

 ここにある「共立学校」とはパブリック・スクールの訳語であるから、自分自身の目で見られたKCSが慶應の範になっているのは、疑いのないことだろう。そして、先生が訪れた当時、KCSはキングス・コレッジへ進学する生徒のための学校であったわけであるから、幼稚舎から始まる慶應義塾の一貫教育の発想の原点になったとも想像できる。

 

 KCSのスクールカラーが慶應と同じ紺と赤で、クリケットのセーターは襟に紺赤紺の線が入り、ラグビーのジャージーは紺、赤の横縞、制服はジュニアは赤のブレザー、シニアは紺のブレザーといった具合である。年は、5月から10月まで上海で万国博覧会が開かれている。世界最初の万国博覧会は1851年にロンドンで開催された「グレート・エキシビション」であるが、1862年に再びロンドンで開かれた「インターナショナル・エキシビション」には文久2年の遣欧使節、従ってその一員の福澤先生も訪れていた。

 

 

line

 

これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

これ以前の連載はこちら

 
 
   
line  
 
 
 
  12  
 
TOPへ戻る
 

 

 
Copyright (C)2004-2010 Keio University Press Inc. All rights reserved.