慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第47回    
  咸臨丸(下)
 
 
 
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  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

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八、清水港での悲劇

 慶応3(1867)年、かなりの修繕を必要とした咸臨丸は、蒸気機関を新調せずに取り外し、船体のみ修理された。軍艦籍より除かれ、帆船として運輸専用となった。

 

 翌年、榎本武揚は明治新政府による武器・軍艦の引渡しを拒否し、蝦夷地に旧幕臣による新政権を樹立すべく、8月19日、最新鋭艦開陽丸を旗艦とした八隻の榎本艦隊は品川沖を脱出、蝦夷に向かった。既に蒸気機関が取り外されていた咸臨丸は、軍艦回天丸に曳航されて出港したが、鹿島灘で台風に遭遇し、回天丸からの曳綱を断ち、メインマストを切断し、辛うじて転覆を免れ、漂流することとなった。常陸国那珂湊沖までたどり着いたが風向きが変わり、御蔵、三宅両島間を流れ、下田港に流れ着く。ここからは、河津港に避難していた蟠龍丸に曳航されて、9月2日に清水港に入港した。

 

 9月14日、新政府軍の富士山丸、飛龍丸、武蔵丸が清水港に到来、咸臨丸を砲撃した。戦闘能力のない咸臨丸は、白布を打ち振ったが、新政府軍は小銃を撃ちながら接近、抜刀して甲板に進入し、咸臨丸乗組員を殺害した。

 

 新政府軍が咸臨丸を曳いていったが、港内にはまだ屍が浮遊していた。賊名を負った屍を片付ける者はなく、船の出入りも絶え、漁もできずにいた。このときに乗り出したのが、侠客清水の次郎長こと山本長五郎で、彼は「己れは無学で官軍が善いか賊軍が悪いか、そんな事は知らぬ、己れは焚出しと人入れが商売だから御用を勤めたまでだ。併し主家のために死んだ屍を魚腹の餌に棄置くのを見て居るのは、持前として己れに出来ぬ。」と言って死体を収容し、巴川と海との間にある洲で人家もない向島に埋葬した。明治三年の三周忌に次郎長は巴川に仮橋を架けて、町と向島を結び、山岡鉄舟揮毫の「壮士の墓」を建立し、冥福を祈った。現在、向島の洲は埋め立てで市街地に組み込まれ、巴川に架かる港橋から川沿いに約200メートル南へ下った築地町一番地に「壮士の墓」がある。

 

 清水駅からバスで15分、東海道に面した興津清見寺(せいけんじ)に、この事件に関して明治二十年に建てられた「咸臨丸殉職碑」がある。「骨枯松秀」の篆額は大鳥圭介、碑文は永井尚志、さらに背面には(現在はこちらが表のように設置されているが)榎本武揚による「食人之食者死人之事」(人の食を食む者、人の事に死す)という言葉が刻まれている。この言葉の出典は『史記』であるが、ここでは徳川の食禄を食はんでいた咸臨丸乗組員は、徳川のために殉じたという意味である。

 

 明治24年、福澤先生は清見寺に詣でこの碑文を見て、旧幕府海軍を率いて脱走した榎本の明治政府での栄達ぶりを『瘠我慢の説』で次のように批判している。

 

 「されば我輩を以て氏の為めに謀るに、人の食を食むの故を以て必ずしもその人の事に死すべしと勧告するにはあらざれども、人情の一点より他に対して常に遠慮するところなきを得ず。古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、ただその身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。」

 

九、木古内沖での終末

 明治政府において咸臨丸は、大蔵省所管から明治2年9月北海道開拓使に移籍。明治4年9月20日北海道開拓に赴く仙台白石藩の家臣団400人を乗せて松島湾から小樽へ向かう途中、津軽海峡に面した木古内(きこない)町和泉沢沖で座礁、25日まで持ちこたえたがサラキ岬で沈没し、咸臨丸の最期となった。

塩飽勤番所
 
咸臨丸終焉の碑(木古内町)

 

 昭和59年には、サラキ岬沖合から咸臨丸と思しき錨が引き上げられている。
 現在、木古内町は、咸臨丸を観光テーマとして、8月には「きこない咸臨丸まつり」、5月には咸臨丸の故郷オランダに因んでチューリップフェアーなどが催され、「咸臨丸とサラキ岬に夢見る会」も組織されている。津軽海峡線泉沢駅・釜谷駅から徒歩25分の所にあるサラキ岬は、5万本が植えられているチューリップ園として整備され、ここに木古内町観光協会・咸臨丸とサラキ岬に夢見る会によって「咸臨丸終焉の碑」(平成18年5月建立)や「サラキ岬に蘇る咸臨丸」(平成17年5月完成)として咸臨丸をモデルにしたモニュメントが作られている。
 日本人による初の渡米という栄光を担った咸臨丸であったが、晩年は何とも哀れな境遇と末路であった。

 

十、復元咸臨丸

 長崎オランダ村(現ハウステンボス)が発注し、平成元年オランダのメルウェーデ造船所で復元咸臨丸が起工した。同船は、全長66メートル、幅10.5メートル、53九トン、ディーゼルエンジンをはじめ、人工衛星を使って通信できるシステムなど最新の装備が施されているが、形やマストは設計図に従って忠実に復元され、帆走も可能である。

 

 平成2年1月16日、ロッテルダムを出港、パナマ運河を通過して、咸臨丸が太平洋を横断してサンフランシスコに入港した同じ日付、3月17日にサンフランシスコに到着。太平洋を横断して、4月26日多くの観衆を集めて横浜に入港した。同船はチャーター観光船として数々のイベントに活躍し、数年幼稚舎でも東京湾クルーズを実施していたが、平成15年マレーシアに売却され、残念ながら姿を見ることができなくなった。

 

 

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