慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第45回    
  幻の門
 
 
 
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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応援歌「幻の門」

 

 応援歌「幻の門」は、昭和8(1933)年の春、ワグネルソサイエティーと、その年に正式に発足した応援部(現在の慶應義塾応援指導部)との企画で作られたもので、塾員堀口大學が作詞し、作曲には山田耕筰があたった。当初、作詞を北原白秋に頼んだところ、早稲田出身であることから断られたため、まず山田を訪れて、山田の推薦で堀口に作詞を依頼することとなった。堀口は後年作詞当時を述懐して、塾員亀山三郎宛の書信で次のように述べている。

 「あれを作詞した当時、塾の正門には門らしい形の門は何一つありませんでした。それなのに電車通りから入ってあの校門の坂を登ると何となくそこに、目には見えない、だからまた素晴らしい、青春のあこがれと理想を迎え入れる大きな門が聳え立ってゐるやうに感じられたものでした。これがまた形式にとらわれない塾の精神と相通じるやうに私には思へたものでした。即ちこれを「幻の門」と呼んであの歌に歌いあげた次第です。」(昭和30年3月3日付)

 これに対して亀山が、作詞したころに門がなかったというのは事実と違うのではないかと質問したところ、

 「さううけたまわると何のかざりもない二尺角ほどの石柱が立ってゐたやうな気もします。「K大学には不似合な門ながら、われ等学生にとっては昇天に価する幻の門だ」といふ意味であの歌詞を作つやうな気がして来ます。(甚だたよりない証言でお気の毒ですが、事物の記憶より気分の記憶が強い性分なので毎度困ります。耄碌のためでもあります。御憫笑!)」(同年3月7日付)

 堀口が塾に通っていた明治40年代は、未だ木造の黒塗り門であったはずであるから、正しく「気分の記憶」によって作詞された歌といえよう。堀口は作詞にあたって深川の不動尊に願掛けをし、「幻の門」がデビューした慶早戦を小さい不動像を抱えて観戦しに行った。試合中小雨が降り出したので、不動像を外套の懐に入れたところ、早稲田が得点してリードを奪った。俗の身の汗で穢れた場所に置いたのがいけなかったと思い、詫びながら懐から取り出した。すると次の義塾の攻撃で逆転劇を演じ、勝利したという。

 歌の完成後、山田耕筰の事務所から300円という思わぬ高額の請求書が届き、自治会が支払いを渋ったため、しかたなく初代応援団長柳井敬三が実家から金を借用して支払ったといわれている。

 「幻の門」の誕生と同じ年、応援部に林毅陸塾長から、正式な創部を祝して、長さ180センチメートル余りの樫材に金色の鷲の彫刻を先につけた指揮棒が贈られた。「義塾義塾我等が義塾」と次の結びの「慶應慶應慶應義塾」との間に、一拍の休符があり、この一瞬に団長の指揮棒の頭の金鷲がサッと空を切るのが鮮やかであったといわれている。

 

表門から東門へ

 

 昭和34年5月、義塾創立100年事業の一環で、南校舎の建設に伴い、校地南側に、今の正門が新設されるに及び、正式には「東門」という呼称となった。しかし、応援歌「幻の門」の印象から、異称「幻の門」なる呼び名がもっぱら使われてきているようである。因みに現在の正門にも門標はない。かつての慶應義塾前の電停は、都営バスと東急バスが共同運行の、東京駅丸の内南口―等々力操車場(東98)、都営バスの田町駅―新宿駅(田70)の慶應義塾東門停留所となった。田70は経路の変更を経て、平成12(2000)年に廃止され、現在は東98のみが運行している。

 昭和40年代の学費値上げ反対運動の際には、机や椅子のバリケードで封鎖され、門標のない門柱にはアジ看板が掲げられたこともあった。
平成12年4月に完成した東館の建設に伴い、幻の門は東館アーケードを通り抜け、ブリッジをくぐって左手に続く石畳の坂道の上、福澤公園に近い位置に移設された。門としての機能を持たせたものでなく、あくまでモニュメントとして門柱のみの移設である。また、鉄門扉の一部は、キャンパスから東館3階へと通じる、坂道をまたぐ陸橋側面の飾りに転用されている。門に向かう坂の両脇にあった馬留石の一部も併せて移設されている。多くの塾員、教職員になじみの深かった、坂道の中ほど北側にあった、慶應義塾前郵便局の木造の建物も取り壊され、三田通り反対側のビルの一階に移転した。
 

 現在の幻の門は、福澤公園の木々が四季折々の姿を映し出すキャンバスの役割を果たしているといえよう。

 

移設された「幻の門」
 
移設された「幻の門」

 

 

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