三田キャンパスは現在南校舎が工事中で、多くの塾生、教職員、来校者が三田通りに面した東館の入り口を利用している。東館建設前の、三田通りから東門と図書館旧館(旧図書館)の八角塔を見上げた光景は、多くの塾員にとって、なじみの深いものであった。今回は、この東門、異称「幻の門」にまつわる事項を紹介する。
旧島原藩黒門
明治4(1871)年3月に、義塾は芝新銭座から三田の肥前島原藩松平家の中屋敷に移転した。多くの塾舎が屋敷の家屋を利用したものであった。現在東館の建つ場所には、大名屋敷の木造の黒塗り門があり、これもそのまま慶應義塾の門となった。敷地西側の綱町方面に通じる門を「裏門」あるいは「西門」と称したのに対して、「表門」あるいは「正門」と呼ばれるようになった。
明治33年、2月3日に逝去された福澤先生の葬儀は、2月8日に執り行われた。午後0時40分に三田山上の先生宅を出た棺は、普通部生を先頭に、幼稚舎、商工学校、大学部の約1550名の生徒に先導され、表門から赤羽橋、一の橋を経て、式場の善福寺に向かった。義塾教職員、塾員、交詢社員など、総勢約15000人の4列に並んだ葬列は午後2時に善福寺に到着した。
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旧島原藩黒門
(慶應義塾福澤研究センター所蔵) |
表門の改造と路面電車開通
義塾の発展とともに新校舎が次々と建てられ、明治の末ごろには三田山上も手狭になってきた。表門入ってすぐの高台には、明治45年4月、義塾創立50年を記念した図書館(現図書館旧館)も竣工を見たが、表門は依然として木造の黒門であった。しかし、老朽化が進み、倒壊の恐れも出てきたため、石柱鉄扉の門に改造することとなった。大正2(1913)年1月21日の第8期第39回評議員会で、表門改造費2000円、総工事費3780円余の「義塾表門改造並びに坂路改修に関する件」が決議された。その年の夏期休暇中に、警備員詰所(評議員会での名称は巡査交番所)の改造と、坂の勾配を緩やかにする工事に伴って、洋風の花崗岩の門柱四本に鉄門扉の門に改造された。形式にとらわれない義塾の気風からか、飾り立てることなく、門標さえも掲げられなかった。
明治36(1903)年路面電車が開業し、三田停留所の前には三田電車営業所が設置され、品川線、金杉線、加えて翌年開通した三田線の起点となり、品川駅前―上野駅前(1系統)、三田―東洋大学前(2系統)、品川駅前―飯田橋(3系統)、三田―千駄木2丁目(37系統)の各系統を担当した。更に明治45年6月には、飯倉1丁目―赤羽橋―札ノ辻間を通る札ノ辻線が開通し、前述の3系統(品川駅前―札ノ辻―飯倉一丁目―神谷町―虎ノ門―四谷見附―飯田橋)の路面電車が三田通りを通るようになり、慶應義塾前の電停が設けられ、昭和44(1969)年の廃止まで、住民や塾生の足として親しまれることになる。
三田営業所跡は、現在都営芝5丁目アパートになっている。
昭和18年11月、塾生出陣の壮行会が挙行され、大講堂前を出発した出陣学徒は、残留学生に見送られ表門を後にして、福澤先生の墓参に向かった。また、戦時中、陸軍のトラックが門柱を引っ掛けて甚だしく破損した。当時用度課長であった羽磯武平が、小泉信三にそのことを報告したところ、「軍と雖も遠慮することは無用である。然るべく要求し請求すべきである」との指示を受けたそうである。同20年5月の空襲でも被災し、同22年に横須賀三田会の寄附を基に修復された。戦後間もなく、右側の門柱に「慶應義塾」と墨書きされた門標が掲げられたが、何者かによって直ちに持ち去られたという。
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石柱鉄扉となった表門と図書館旧館
(慶應義塾福澤研究センター所蔵) |
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