慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第44回    
  咸臨丸(上)
 
 
 
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

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1. 咸臨丸の誕生

 嘉永6(1853)年のペリー来航を契機に、国防上幕府は洋式近代海軍の必要性を認識し、安政元(1854)年オランダに2隻の軍艦を発注した。こうしてオランダでは、キンデルダイクのスミット造船所でヤパン(日本)号が建造され、安政4年8月5日(1857年9月21日)長崎に回航されてきた。ヤパン号は翌年12月「咸臨丸」と名を改めた。咸臨とは『易経』から引用されたもので、「咸は"みな"と訓ず、気の相交わり和する義。臨は"のぞむ"と訓ず。咸臨は君臣互いに親み厚く情恰(あまね)きの至りなり。」という意味である。
 昭和44年ロッテルダム海事博物館で咸臨丸の設計図が発見され、咸臨丸の詳細が判明した。咸臨丸は全長49メートル、幅7メートル、排水量625トン、百馬力、大砲12門、スクリューをもった3本マストの木造蒸気船である。百馬力といっても港の出入りなどに用いる補助機関で、通常の航海は帆走である。
 咸臨丸に続いて同型艦エド号(朝陽丸)も安政5年5月3日に長崎に到着した。

 

2. キンデルダイク(Kinderdijk)

 幾分前のことになるが、平成五年夏、私はキンデルダイクを訪れた。
 直訳すると「子ども堤」となるキンデルダイクは、ロッテルダムの南東約十三キロに位置し、Noord川とLek川の合流地点に当たり、今でも19基の風車が存在する。これらの風車は、川より低い土地から川へ水を排出するためのもので、オランダで最も古い干拓地の一つアルブラセルワールトを水から守っていた。今では風車に代わってスクリュー型のポンプで排水を行っているが、1740年代に作られた風車群は、平成9年世界遺産に登録されている。
 Noord川に面した所にスミット造船所(Smit Shipyard)がある。昭和45年頃現在の近代的なドックが建設され、古いドックは残っていないとのことであった。会社自体はSmit Internationale N.Vという世界規模の会社になっており、ここでは船だけでなく干拓用ポンプを始め、各種機械を製作しているようであった。

 

3. 渡米決定

 安政5年に締結された日米修好通商条約の批准交換のため、安政7(1860)年(3月18日、万延に改元)正使新見豊前守正興を始めとして77名の大使節団をアメリカへ派遣することになった。この遣米使節団と並行して、日本人によって日本の軍艦を派遣することが決定した。その目的は、正使一行の警護、正使が万一の場合は当艦に乗り込んだ軍艦奉行が代行を務めるというものであった。しかし、真の目的は遠洋航海技術の実験、さらに太平洋横断の成功が近代国家へのステップになることを期待したものであった。そして咸臨丸がその役を担ったのである。
 福澤先生は、蘭学者が集まっていた桂川家に出入りをしていた。蘭学医桂川甫周国興夫人が、咸臨丸渡米の責任者、軍艦奉行木村摂津守の姉久迩(くに)であったことから、渡米を希望した福澤先生は、木村摂津守の私的な従者として、咸臨丸一行に加わることが許された。

 

4. 咸臨丸出港

 安政7年1月12日夕刻、生還期し難く家族と水盃を交わした咸臨丸乗組員は、築地軍艦操練所から端艇で品川沖の咸臨丸に乗船した。そして翌13日品川沖を出発、15日神奈川港で座礁したブルック大尉他11名のフェニモア・クーパー号の乗組員を横浜で乗せて出港、16日に浦賀に入港した。食料や燃料の積み込みなど航海準備作業が執り行われ、19日(2月10日)午後3時30分浦賀を抜錨し、太平洋に乗り出していった。
 現在、浦賀の愛宕山公園の中腹、港を見下ろすことのできる地に「咸臨丸出港の碑」が建てられている。この碑は昭和35年、日米修好通商100年行事の一環として建てられ、題字は当時の外務大臣藤山愛一郎が認めている。碑の裏面には、木村摂津守、勝麟太郎他90有余名の咸臨丸の乗組員の名が刻まれており、福澤諭吉の名も見ることができる。
 ちなみに遣米使節一行は、1月18日築地の軍艦操練所に集合し、品川沖に停泊中のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗船、1月22日横浜港を出帆し、アメリカに向かった。芝増上寺前の芝公園に、「万延元年遣米使節記念碑」が植え込みの中に目立たず建てられている。この碑も日米修好通商百年記念行事の一環として、昭和35年6月に作られた。

咸臨丸出港の碑
 
咸臨丸出港の碑

 

 

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