慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第42回    
  藤原銀次郎と理工学部
 
 
 
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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 塾の理工学部の礎を造り、「製紙王」と呼ばれた藤原銀次郎は、今年歿後50年を迎える。

慶應義塾に学ぶ

 藤原は、明治二(一八六九)年六月十七日、長野県上水内郡安茂里村平柴(現長野市平柴)に藤原茂兵衛の三男として生まれた。父茂兵衛は農業のかたわら、藍問屋を営み安茂里村一番の財産家といわれた。長野市街地の西にある旭山へ続く道の途中、視界の広がるカーブ脇の広場に、昭和三十一(一九五六)年、頌徳碑として藤原の生前に、背面に業績を称えた碑文を刻んだ、藤原道祖神が建立された。開眼式で藤原は、「善光寺の御上人様に開眼していたゞき、お話を承はって、生き乍ら神様にさせていただきました。」と挨拶した。ここから犀川を中心とした長野市中南部の夜景が眺望できる。
 十六歳のとき医者になることを目的に上京したが、同郷で慶應義塾の先輩に当たる鈴木梅四郎の勧めで、医学の道には進まず福澤先生門下となった。「福澤先生から我々の受けた薫陶は、独立自尊の強い意志を貫き通す士魂商才で、理屈よりは実行、官途に身を立てるよりは実業につくことであった。」(『世渡り九十年』)と本人が語っている。

※藤原道祖神碑文はこちら

 

実業界に進出

 明治二十二年義塾を卒業し、松江新報に入社、主筆となる。しかし松江新報が経営不振に陥り解散寸前となったため、藤原は申し出て会社を引き受け社長兼主筆となるが、新聞用紙の調達に苦心し、結局経営に行き詰まり新聞記者を辞めて帰京した。後年藤原はこのときの苦境を、「世の中に貧乏ほど苦しくつらいものはない。世の中は決して子供のときに考えていたほど、のんきな、甘いものではないと、心の底から痛感させられたのでした。」(『福澤諭吉人生の言葉』)と振り返っている。
 同二十八年、鈴木の勧めで、三井銀行に入社する。同期には後に蔵相となる池田成彬がいる。大津支店を皮切りに、東京深川出張所長となり営業成績を上げる。同三十年には、三井が経営する富岡製糸場支配人となり、工員の賃金を出来高払い制にして工員間の不満解消に努めた。
 同三十一年、王子製紙で経営陣の対立からストライキが起こると、臨時支配人に就任。富士製紙からの熟練工引き抜きや古参社員の重視などでストライキを収めた。同四十四年には、王子製紙専務に就任。当時の王子製紙は経営不振で赤字続きであった。藤原は三井物産時代の部下であった高島菊次郎、足立正などを登用し、さらに社内の人材発掘に努めた。欧米の機械製造会社と特別契約を結び機械の購入の代替として王子製紙の海外研修生に対する見学・視察を認めさせた。また、静岡気田、中部両工場を閉鎖し、苫小牧、王子両工場を生産拠点とした。この時には三井銀行から資金を一切調達せず、紙問屋に対して実情を訴え、手形決済を早くすることで資金を得、苫小牧工場の増設と六十パーセントの増資を実現した。藤原は社員教育にも力を入れ、工場の火災予防を推進した。苫小牧市船見町にある王子製紙社宅の横の公園には、藤原の胸像がある。
 昭和四(一九二九)年、貴族院議員に勅選される。同八年、王子製紙、富士製紙、樺太工業の三社合併を実現し、資本金一億五千万円、国内シェア九十パーセントを持つ巨大製紙企業を出現せしめた。藤原は新生王子製紙の社長に就任し、「製紙王」の異名を取るようになったのである。

 

藤原工業大学開校・義塾工学部誕生

 昭和十三(一九三八)年、私財八百万円を投じて、人材育成を目指して日吉キャンパスに藤原工業大学を設立した。当時の慶應義塾では医学部に続いて工学部を設置したいというのが年来の課題となっていたのであるが、昭和十三年六月に藤原は当時の塾長小泉信三と交詢社で会見し、次のような趣旨の申し出をしたという。「自分が製紙業界でなすべきことは、すでになし了えた、この上はそれによって積み得た私財を工業教育のことに捧げたい。かくして創立された工業大学は、完成の暁にはそのすべてを挙げて母校である慶應義塾に寄附する所存であるから、その塾長である君(小泉)は、塾の正式同意を得てその大学々長に就任してもらえまいか。」(小泉信三「藤原銀次郎翁をいたむ」、『産経新聞』昭和三十五年三月十八日朝刊)。その後、十数度の会談を経て、両者は学制・教職員問題・建設地などについて相談し、結果、合併を考慮して学部校舎の建設地は日吉の近くの矢上台とする、制服や教員人事なども慶應義塾大学と同等または共通とする、などの詳細が決定されていった。また、教育方針として、「基礎に重点を置いた工学教育」、「人間性の確立を目指す教養教育」、「国際交流などに役立つ語学教育」を掲げることとした。後の二項目は、藤原の思想から来たものだが、元々藤原は、工場などで実地にすぐ役立つ工業教育を考えていた。しかし、小泉や後に就任する谷村豊太郎初代工学部長の「すぐ役立つ者はすぐに役立たなくなる」という基礎教育重視の考えを受け入れ、一項目も掲げられた。更に藤原は、「工場は大学の実験室であり、大学は工場の実験室である、この思想で進みたい」(「藤原工業大學の理想」『三田評論』昭和十四年七月号所収)と、産学協同の推進も図ろうとした。
 藤原工業大学は、機械工学科・電気工学科・応用化学科の三学科からなる、大学予科三年・本科三年の六年制で、私立大学としては初となる工業単科大学であった。開校式は藤原の七十歳の誕生日、同十四年六月十七日であった。
 第一期生百二十六名が卒業した同十九年に、小泉との約束通り慶應義塾大学工学部となったが、戦局の悪化から同二十年二月には本格的な疎開の準備を余儀なくされた。同年四月十五日夜半から未明に、日吉台はアメリカ軍の空襲にさらされ、予科校舎(現日吉塾生会館付近)が全焼し、学部仮校舎(現日吉図書館、第四・五・六校舎付近)は約八割が灰燼と化してしまった。電気工学科・応用化学は福井市郊外へ、機械工学科は宮城
県多賀城へ疎開の憂き目を見ることとなった。

「藤原道祖神」碑文

 藤原銀次郎翁は、明治二年六月十七日考茂兵衛妣タカ女の三男二女の末子として、平柴区に生る。資性明敏にして勤勉努力の人、明治大正昭和の三代に亘り、我国製紙業を大成せし当代稀に見るの偉器たり。昭和四年多年我国工業発展に貢献したる功労に依り、貴族院議員に勅選せられ、同十五年商工大臣に就任、次て国務及び軍需の両大臣査察使等に歴任し二十八年度慶應義塾賓相談役、共立女子学園名誉院長に就任す。翁常に区民の福祉を図らんことを念ひ、昭和十年四月、鉅費を投じて水道を敷設し、更に延長五粁に余る幹線道路並に排水施設及び各部落の岐路に至るまで、区内道路を完備して区民干今その仁沢に沿す。今茲翁が米寿を迎ふるに当り、区民胥謀り、翁の恩義に報ゆる為め、碑を建て翁を道祖神に祀り、其の厚徳を永遠に讃へ、以て郷党後進の鑑とする所以なり。

 

昭和三十一年四月
平柴区民一同敬立
辱知近藤高美謹書

 
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三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
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金玉均


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第99回
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第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


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第95回
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──文学と実業の二重生活


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──三田・四谷の被害と復興


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──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


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第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


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第79回
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2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


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