慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第36回    
  水原茂・別当薫の銅像
 
 
 
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

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 慶應義塾における野球の歴史は、すこぶる古い。明治十七年にアメリカ人ストーマー氏の教授を受け、同二十一年に三田ベースボール倶楽部が組織され、体育会が創設された同二十五年には体育会野球部が発足している。この伝統ある野球部出身者で、像が建てられている人が二人いる。水原茂と別当薫である。

水原茂

 水原茂は明治四十二年、香川県高松市で生まれる。生後百日で両親は離婚。野球の好きな祖父は、孫の気晴らしにとボールで遊ばせた。父親は水原というクリーニング屋の婿養子になるが、水原は義理の母になじめず、つらい日々を送っていた。「野球をやっていて救われた。そうでなければ不良少年になっていた。」と彼自身、述懐している。
 旧制高松商業学校(現県立高松商業高等学校)に進学した水原は、一年先輩で、後に慶應大学の黄金時代を担う宮武三郎投手と共に甲子園に出場し、名をはせた。水原は、大正十四年と昭和二年に甲子園で優勝を経験している。

 現在、高松商業の正門を入って左に、昭和二年の優勝を記念した銅板が埋め込まれた石碑がある。銅板にはメンバーの名も記され、「右 水原茂」の名が見える。昭和九年、全国中等学校優勝野球大会の第二十回を記念して、甲子園に野球塔なるものが建設され、そこに過去の優勝校名・メンバーが刻まれた銅板がはめ込まれた。銅板は戦時中の金属供出の憂き目に遭うが、高松商業の銅板は偶然にも鋳潰されずに残っていた。
 高松商業は、名門高松中学に追いつくため、慶應大学からコーチを招いていた。その関係からか、昭和三年水原は慶應に進学し、その年の秋季リーグ戦から主に投手として登場する。慶應野球部は、このシーズン十戦十勝という輝かしい成績を収め、紺・赤・紺のストッキングに記念の白線を入れることになった。

 翌四年から主として三塁手として出場し、在学中五度のリーグ優勝を経験する。同八年の早慶戦では、かの有名な「りんご事件」の渦中の人となった。三塁側に陣取った早稲田応援席から物がひっきりなしに投げ込まれ、その片付けをしていた三塁手水原の投げたりんごが偶々早稲田応援席に入った。その後、逆転負けを喫した早稲田の応援団は、水原の行為に憤慨し、グラウンドになだれ込み、そのシーズンに塾長から贈られた慶應応援団の指揮棒を奪い取った。問題は大きくなり、早稲田野球部長の辞任、同チームの一シーズン出場辞退となった。「未来をひらく福澤諭吉展」では、野球体育博物館蔵の水原の慶應のユニフォームが展示されていた。フラノ生地で、背のタグはローマ字で高島屋と入っている。

 昭和十一年巨人軍入団、昭和十七年召集を受けて戦地に赴き、シベリア抑留を経て、昭和二十四年七月帰国、後楽園球場で「水原茂、只今帰って参りました。」と挨拶をし、翌年、三原脩の後を受けて巨人軍監督に就任する。
 高松市立中央球場の跡地、高松中央公園に平成五年に建てられた銅像は、巨人の水原、西鉄ライオンズの三原両名が並び立つものである。

 

水原・三原の銅像
水原・三原の銅像


 三原は、水原より二歳年下で高松では野球人気を高松商業と二分していた高松中学出身で、早稲田大学に進学した。昭和六年春の早慶戦では、水原が投手を務めていた時、勝ち越しホームスチールを成功させている。昭和九年に巨人軍の前身大日本野球倶楽部に入団、巨人軍では三塁水原、二塁三原で名をはせていた。水原が巨人軍監督に就任すると、三原は西鉄監督となり、同三十一年から三年連続で日本シリーズは、水原の巨人と三原の西鉄の顔合わせとなり、世間は「巌流島の決戦」と書き立て、西鉄は三年連続で日本一となった。しかも、昭和三十五年三原が大洋の監督になると、その年セ・リーグ優勝は大洋、水原の巨人は後塵を拝し二位となり、水原は巨人を去る。

 水原はその後、東映、中日の監督となり、東映を日本一にしている。監督としての水原は、どうも三原に分が悪いが、監督業を務めた十八シーズンで、勝率〇・五八六、リーグ優勝九回、日本一が五回は誇れる数字であろう。ちなみに三原は、勝率〇・五三八、リーグ優勝六回、日本一が四回である。  私の記憶にある水原は、東映、中日監督時代で、両手をズボン後ろのポケットに突っ込み、監督自ら三塁コーチャーズボックスに立つ姿である。昭和五十七年に水原は七十三歳で亡くなる(墓所は鶴見の総持寺)。そして、その二年後に三原も後を追うように鬼籍に入るのである。

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