朝吹英二
朝吹英二は弘化三(一八四六)年に豊前国下毛郡宮園村(現中津市耶馬溪町大字宮園)で父朝吹泰造と母幾能の次男として生まれ、幼名は萬吉と称した。朝吹家は寛永年間に苗字帯刀を許可され、兄謙三まで十五代続く大庄屋であった。英二は八歳のときに痘瘡(とうそう)にかかり、幸運にも回復したが、顔に痘痕が残りこれが後に様々なエピソードを作ったという。十歳のとき朝吹彦兵衛の養子となり、名を鐵之助と改名するが、十六歳になると実家に復帰する。この頃から、朝吹は養子時代の経験を活かして米穀などの売買投機を試みるようになる。慶応二(一八六六)年、代官の下で農兵の分隊長を勤める傍らで日田の咸宜園(かんぎえん)で廣瀬林外(りんがい)の下で学ぶ。その後、中津の渡邊重春の営む渡邊塾に入り、この頃、鐵之助から改名して英二と名乗るようになる。さらに同じ中津の白石照山の漢学塾で、福澤先生の又従兄弟である増田宗太郎と知り合う。増田は過激な攘夷思想の持ち主で、親しい間柄の朝吹も彼の感化を大いに受けることになった。明治二(一八六九)年の春、中津藩主奥平氏の姫君が、四條隆謌(たかうた)という公卿に嫁ぐことになった。このとき、兄謙三の嫁たみの親族である、中津藩の鍼医藤本箭山が御附役として上阪することになるが、供の者が病気になり帰国する。朝吹は代わりに自分が行くと家出覚悟で頼み込んで上阪し、藤本の下で働きながら学問を続ける。同三年十一月、福澤先生が中津にいる母を迎える途中に甥の中上川彦次郎らを連れて大阪に寄り、船が出るまでの数日間を、藤本の家で過ごした。このとき初めて朝吹は先生一行と対面するのであった。
朝吹は、牛肉を食べるなど西洋式の生活を送り、自分の月給の一カ月半に当たる一分二朱を払って駕籠に乗る福澤先生や、年下にもかかわらず自分を田舎者扱いする中上川にも嫌悪感を抱いた。そこへ朝吹を訪ね先生の様子を聞いた増田は激高し、朝吹に先生暗殺を依頼したのであった。朝吹は、福澤が緒方洪庵夫人を訪ねた帰りに暗殺を実行に移そうとするが、太鼓の音がして気が抜けてしまう。朝吹はその時の様子を、明治四十一(一九〇八)年二月の大阪三田会で詳しく演説している。
その後先生に諭され思想転換し、慶應義塾に入社、芝新銭座時代の福澤家の玄関番として働いた。明治五年に慶應義塾出版局の創設に際してその主任に就任する。同八年には、先生の媒酌により中上川の妹澄と結婚し、福澤・中上川家と縁戚関係になった。同十一年、三菱商会に入社、その後、大隈重信に近い政商となり、中上川の招きで同二十五年、鐘ヶ淵紡績専務に就任し、三井工業部専務理事、三井管理部専務理事、王子製紙会社会長と、三井系諸会社の重職を歴任し、三井の四天王の一人と言われた。石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。柴庵(さいあん)と称し、目利きとしても知られ、由緒も知られず、下谷池之端の道具商の店頭にあった水戸徳川家伝来の〈古銅下蕪耳付花入〉を即座に名品と看破し、廉価で入手したという。
朝吹英二生家跡
朝吹家は、母屋雑座敷合わせて大小二十九室に及ぶ大邸宅であった。
宗家の亀三が家督を継いだが、その後生家跡は、英二の血縁である清島家が運営する保育所になった。保育園閉園後宮園集落に寄附され、現在は宮園公園と宮園公民館になっている。公民館脇の旧日田街道沿いに、「朝吹翁頌徳碑」がある。朝吹は郷土宮園の人々を、物心両面から支援した。その徳を称えて、朝吹の生前大正三(一九一四)年に在郷の人々が中心となって、頌徳碑建立の計画が起こった。江藤甚三郎を建設委員長に、碑文を帝国博物館館長股野琢(藍田(らいでん))に依頼し、場所も選定されいよいよ着工という段になって、話を聞いた朝吹は強くこれを固辞した。同七年の朝吹歿後、再び建碑談が起こり、先の股野の碑文に加えて、犬養毅が碑建立までの経緯を記したものを撰文としたものである。
公園内には「宮園元組部落一同」の建立した、朝吹清島両家の偉功を伝える記念碑がある。こちらは、宮園にある、河童祭りで有名な雲八幡神社の宮司であった秋永十勝(とかち)の筆による。公園の片隅には、石灯籠や苔むした巨石が残っており、邸宅のあった往時を忍ばせている。

朝吹翁頌徳碑
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宮園公園内の記念碑
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