大学三田キャンパス図書館旧館前〜胸像(ブロンズ像)〜
昭和二十九(一九五四)年、福澤先生銅像建設会の寄贈で、柴田佳石制作の胸像。先生歿後五十年を経て、先生の面影を知る者が少なくなったことから、当時先生像のなかった三田山上に据えようとした運動がきっかけとなった。除幕式は先生の一二〇回目の誕生日である一月十日に挙行された。柴田は本名福四郎、明治三十三年に東京で生まれ、普通部出身、「長崎平和祈念像」の作者として知られる北村西望に彫塑を学び、昭和二十六年、日本陶彫会の発足時の会員になる。日展に委嘱出品を続け、後に「珂石」あるいは「珂赤」と称し、同四十三年、六十七歳で歿した。
当初、三田第一研究室前庭に、谷口吉郎の選定で設置されたが、昭和四十二年、研究室棟建て替えのため撤去された後、学生運動の混乱期も含めて長らく義塾の倉庫に納められていた。昭和五十八年九月二十九日、福澤研究センター設立を機に、図書館旧館正面玄関左側に移設され現在に至っている。胸像背面銘文に「独立自尊一九五三佳石謹作」とある。
この胸像と同じ塑像による胸像がいくつかあり、その第一作が天本淑朗ら数名の交詢社社員から交詢社に寄贈されたものである。天本は、当時横浜護謨(ごむ)製造会社の社長で、柴田とは普通部以来の友人であった。銅像除幕式は昭和二十八年五月二十二日、交詢社において行われた。作成に当たって、先生の肖像写真を参考に、福澤先生の四女志立タキや四男大四郎、『時事新報』の風刺漫画で活躍した北澤楽天らの助言を受けて、一年有余の時を費やして作られたといわれている。
柴田は、先生の娘婿の福澤桃介などの義塾関係者の胸像や、岐阜公園内にある「板垣退助像」も制作している。また、余り知られていないが、かつて小田原駅改札脇に設置され、現在同駅東口にある小便小僧のブロンズ像も彼の作品で、有名な浜松町駅ホームのそれより二年前の昭和二十五年の作である。<柴田佳石の作品>

図書館旧館前の胸像
幼稚舎自尊館ロビー〜胸像(レリーフ)〜
本郷新制作。昭和三十九(一九六四)年、幼稚舎創立九十周年記念事業として建設された講堂、「自尊館」のロビーに先生像が取り付けられた。
本郷新(明治三十八〈一九〇五〉年〜昭和五十五〈一九八〇〉年)は、北海道札幌生まれの日本の彫刻家で、新制作協会彫刻部創立会員。大正八年旧制札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)に入学。一度東京へ移った後に同十四年に旧制・北海中学(現北海高等学校)、昭和三年に東京高等工芸学校彫刻部(現千葉大学工学部)を卒業し、高村光太郎に師事する。同六年国画会の国画奨学賞を受賞し、同九年に国画会会員となるも、同十四年に退会し、新制作協会彫刻部創設や、日本美術会創設に参加した。戦没学生の記念像「わだつみのこえ」が代表作である。大学三田図書館の地下一階にある「わだつみのこえ」は、昭和十年卒業の横山正二が、本郷から買い取っていたものを、平成元年に塾に寄贈したもの。<本郷新の作品>
信濃町キャンパス大学病院中央棟玄関ロビー〜胸像(ブロンズ像)〜
三田キャンパスと同様、柴田佳石制作のもの。医学部第三回同級会(大正十四〈一九二五〉年卒業)から寄贈され、昭和五十年四月二十七日に設置された。
大学日吉キャンパス図書館前〜胸像(ブロンズ像)〜
山名常人(やまなつねと)の制作で、昭和六十(一九八五)年五月十八日に除幕。この年は、先生生誕一五〇年、商工学校創立八十年と節目の年でもあり、塾当局の「誰からも親しまれ、品格のある胸像を日吉図書館前に」との要望を受け、慶應義塾商工学校同窓会、工業学校同窓会、中等部特別第一回・第二回卒業生の寄贈により設置された。山名は、東京高等工芸学校(第二次大戦中は東京工業専門学校、現千葉大学工学部)彫刻部の第八回卒業で、新構造社所属の彫刻家。仏師でもあり、数多くの仏像も制作している。
台座には、同窓会員から寄せられた「未来の塾生にたいする提言」をはじめとする資料を入れたカプセルが納められている。先生生誕三〇〇年(西暦二一三五年)に開けられるタイムカプセルとなっている。
湘南藤沢キャンパスメディアセンター脇〜胸像(ブロンズ像)〜
日吉キャンパスと同じ原型による、山名常人制作の胸像。これまた同じく、慶應義塾商工学校同窓会、工業学校同窓会、中等部特別第一回・第二回卒業生の寄贈により、平成三(一九九一)年十月五日に設置された。<山名常人の作品>
義塾施設以外の福澤先生像
胸像 柴田佳石 昭和28年 交詢社 (東京都中央区)
胸像 和田嘉平治 昭和5年 (昭和23年再建) 福澤諭吉記念館 (大分県中津市)
全身像 辻畑隆子 昭和60年 中津駅前 (大分県中津市)
全身像 ビジネスホテルナカツ屋上 (大分県中津市)
全身像 大分県立図書館 (大分県大分市)
全身像 平成10年 諏訪神社 (長崎県長崎市)
胸像 福沢小学校 (神奈川県南足柄市)
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