昨年の十一月八日、慶應義塾創立一五〇年記念式典が新装なった日吉キャンパス陸上競技場で挙行された。その際、司会を務めた石坂浩二さんの視線の先、バックスタンド側に、かつてはメインスタンド側にあった平沼亮三の胸像が移設されていた。今回は「市民スポーツの父」と称された平沼亮三について著わすことにする。
平沼家の祖先は、鹿島神宮で神官をしていた家系といわれているが、明暦年間(一六五五〜五八)に保土ヶ谷に移住、酒造業を営んでいた。亮三の祖父五代目九兵衛は、天保十(一八三九)年に現横浜市西区平沼付近十万余坪を埋め立て、新田を開拓した。この頃から製塩業にも手を伸ばした。亮三の父六代目九兵衛は、文久三(一八六三)年に平沼新田に移住、帷子川と石崎川に挟まれた地域の埋め立て事業を完成させた上、県会議員を十二年も務めた。

日吉の平沼氏胸像
亮三は、明治十二年二月二十五日このような地主としての大家に生まれた。始め近所の学校に通うが、「お大尽の息子が来た」などとからかわれて馴染めず、父同士がいとこであり慶應予科の教授をしていた松本良三が幼稚舎への入学を勧めた。幼稚舎の『入社名簿第二号』に「明治二十二年六月二一日入社 神奈川県久良岐郡戸太村平沼七五番地 平沼亮三」と記されている。始めは、保土ヶ谷駅から通学していたが体力的に厳しく、福澤先生が寄宿生になることを勧めた。しかし、幼稚舎の寄宿舎は既に一杯で、幼稚舎と廊下続きになっていた幼稚舎教員酒井良明先生の宅に寄宿することになった。酒井寄宿舎は、当初、幼稚舎生の寄宿のみであったが、幼稚舎を卒業してからも置いてもらう者が増え、亮三も大学を出るまで厄介になっていた。
幼稚舎の自由闊達な校風に亮三の気性が合い、相撲、柔道、玉ぶつけ、輪回しなど仲間の先頭に立って行い、スポーツ好きが形成されて行った。特に相撲が好きで(これは一生を通じてそうであった)、勝っても負けてもニコニコしていたという。
普通部に進学、明治三十一年には大学部理財科を卒業している。大学時代は野球部に所属し四番三塁を務めていたが、当時の慶應のレベルは低かったようだ。大人になってからは、柔道、剣道、相撲、野球、テニス、ピンポン、バドミントン、スケート、登山、ボート、水泳、乗馬、陸上、器械体操、バレーボール、ハンドボール、バスケットボールなど二十六種目のスポーツをこなした。
大正三年には慶應野球部の米国遠征の団長、さらにロサンゼルス・ベルリン両オリンピックの日本選手団長をも務めている。東京六大学野球連盟会長、日本陸上連盟初代会長、日本体操連盟初代会長、日本ハンドボール協会会長、日本バレーボール協会会長、全日本学生水上競技連盟会長などの職に就き、アマチュアスポーツの振興に獅子奮迅の活躍である。なお、大正四年に亮三がアイスホッケーの防具を輸入したのが、日本アイスホッケーの始まりになったということもある。
そのスポーツ好きの彼の家が実に興味深い。関東大震災で四男、四女の二人の愛児を失った平沼町の家を引き払い、現横浜駅の北西に当たる沢渡に引っ越した。敷地は三千坪もあり、二千坪の山林、三百坪の洋館、あとの七百坪は運動施設であった。
運動施設と言っても並みのものではない。テニスコートはクレイと芝と二面あり、そこは小野球場にもなった。器械体操の施設、相撲場、柔剣道場、バドミントン、デッキテニスがあり、日本間の廊下には鉄棒があって天井が丸くくりぬいてあった。ここを通る者は、懸垂などをやる決まりになっていたというから痛快である。そして客人のために、無数の運動シャツと運動靴とが用意されていた。スポーツ好きでこの邸を度々訪れていた小泉信三先生は、彼の自叙伝ともいうべき『スポーツ生活六十年』の序文で次のように述べている。「主人公は此家に住んで朝夕其体力と熟練とを試みて毎日楽しみ、又陷しばしば々客を其庭に迎へ、運動をすゝめて其の楽みを己の楽みとする。この庭に迎へられて主人のすゝめに逢へば、腕に覚えのある者も、ない者も恐らく上衣を脱ぎ、靴を穿き替へて芝生の上に降り立たない訳には行くまい」。
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