慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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2016年7月号表紙


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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第25回    
  女子高「徳川庭園」と本邦二番目の野球チーム
今回の挿絵
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「江戸時代のグローブ」
 
  大澤輝嘉 (慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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3. 二番目の野球チームと伯爵邸運動場

 ひろしがクラブチームを結成した当時、平岡家が仕えていた田安徳川家の当主は、明治九年に父慶頼の死去により家督を継いだばかりの四男達孝(さとたか)であった。徳川宗家を継いだ家達を実兄に持つ若殿様は、洋行帰りのに英語を習い始めた。三田綱町の達孝伯爵邸に通うひろしは、英語を教える傍ら、達孝にベースボールの手ほどきをした。英語よりベースボールに夢中になった達孝は、邸宅の広い庭園や築山を壊して泉水を埋め、運動場を造成した。徳川邸運動場と呼ばれたこの球場で、明治十三年、新橋アスレチックスに続く二番目の野球クラブを組織した。チーム名は、アスレチックスより立派なものをとのことで、古今東西の文献の中からギリシャ神話の英雄「ヘラクレス」の名前を戴いて、「徳川ヘラクレス倶楽部」(「三田ヘラクロス倶楽部」との記述も見られる)と名づけられた。
 メンバーは、駒場農学校の学生にして佐賀鍋島家十二代当主である「鍋島直映侯、生田益丈、市川延次郎、早川政次、上野山増興、藤田之助、三田丈夫氏といった人々である。ここで作られたユニフォームは真っ赤のものと清々しいグリーンのものとで、いざ試合となると赤組と青組に分かれるので紅青相乱れて試合する様は将に一幅の画図であった」(大和球士著『日本野球史』)。
 純白のユニフォームの新橋アスレチック倶楽部との月に一回程度の対戦は、「しばしば覇権を争うような大試合」となった(前掲書)。惜しむらくは観客が少ないこと。困った達孝は見物客に茶菓子を用意するなど、観客集めには苦労したという。とはいえ当時の最高級の試合であったため、多くの学生たちが参加していた。そして、卒業後はプレーヤーとして各チームに参加するものもいて、彼らの母校、大学南校の後身である工部大学や駒場の農学校、私学の青山学院、明治学院、立教大学、慶應義塾などでもベースボールは徐々に盛んになっていったのである。特に慶應義塾の学生は、徳川邸が三田山上のすぐ脇であったことから、観戦や時には選手として熱心に通うものが多かった。そうした中、義塾で野球が始められたのは明治十七(一八八四)年頃、野球部の前身である三田ベースボール倶楽部が誕生したのが同二十一年、正式に体育会が組織され、野球部が誕生したのは同二十五年、さらに同三十六年、最初の早慶野球戦が綱町グラウンドで開かれるなど、綱町はまさに明治期の野球のメッカであった。
 達孝は道具にも凝り性なところを見せて、ある日、職人に作らせた見事な桐の柾目(まさめ)のバットを持って現れた。高級素材のバットは、「ピッチャー第一球投げた、打った、折れた。」(大和球士著『野球百年』)と、つかの間の命を終えたのである。

出典:大和球士著『日本野球史
出典:大和球士著『日本野球史』

 

4. 綱町研究所〜女子高等学校

 達孝は、後に貴族院議員、侍従次長を経て、侍従長に就任。麝香間伺候(じゃこうのましこう)となり、学習院評議員等も務めた。しかし、昭和金融恐慌により出資していた十五銀行が倒産して以来経済的に逼迫(ひっぱく)し、昭和十五(一九四〇)年、三田の屋敷を慶應義塾に売却し、実兄家達の邸宅の別棟に暮らすようになった。徳川家より二千七百十一坪の敷地・建物を譲り受けた義塾は、ここに大学研究室を置き、「慶應義塾大学綱町研究所」と呼んで、文学部心理学教室、法学部法律鑑定部などが移った。同十八年には、当時必要に
迫られていたアジアに関しての全面的研究を行う亜細亜(アジア)研究所が新設されて、この綱町の施設全てがあてられた。その後、第二次世界大戦の空襲による教職員の被災者の増加により、綱町グラウンドと共に収容施設として使用された。昭和二十年五月二十五日、当時塾長の小泉信三は綱町グラウンドの北側三田綱町九番地にあった自宅にて罹災し、亜細亜研究所内の防空壕に避難し、翌日慶應病院に運ばれた。研究所の施設も前日の空襲でその約半分を焼失し、同二十一年三月に亜細亜研究所は廃止された。その後、焼け残った施設は職員の住居にあてられていた。
 昭和二十五(一九五〇)年四月、中等部からの女子進学者を受け入れるため、慶應義塾女子高等学校が開校した。その際、すでに幼稚舎・中等部・大学において実施していた男女共学を高等学校の段階でも採用すべきか否かが課題となったが、当時の実情に照らして、男女生徒数のアンバランスが教育上支障を生じやすいことを懸念したのと、心身の発達段階の点から見て、少人数の学校ならともかく、一学年九百名という当時の高等学校の定員では、施設や訓育の上から見ても共学は無理であろうとの結論に達し、女子高等学校の新設に踏み切ったのである(『慶應義塾百年史(下巻)』)。最初の一年間は中等部の校舎を借用し、翌二十六年四月、旧徳川邸の御殿風の家屋を改修し、新校舎一棟と併せて、現在の地での授業が開始された。
 現在、女子高本館二階につながるテラスへの階段脇に見える門は、旧徳川邸の庭園に使用されていた門であり、十三重の石塔を含む庭園が残っている。

 

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これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

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