かつて、日本外交史家池井優氏は、戦前期の日本外交史を指して「不毛の学問」と呼んだ。戦前期の日本では、歴史研究の拠り所である外交文書の公開がなされていなかったことが、そのような状況の背景にあった(1)。
戦後日本政治外交史が歴史研究の対象となったのはそれほど昔のことではないが、それでも少なからず研究の蓄積がなされつつある。そうした中で、安全保障政策、とりわけ防衛政策は、近年まで歴史研究の対象から取り残された領域だった。それにはいくつかの理由が考えられるが、歴史研究を試みる上で死活的に重要であるところの防衛関係文書が、警察予備隊時代も含め非公開であったことが、そのもっとも大きな原因だったといえるだろう。
これに加え、防衛問題を取り巻いていた学界、言論界の状況も無視できまい。この問題が、いわば「国内冷戦の主戦場」と化していた時代が長く続いていたため、それを語ること自体が政策論争へと直結し、政府の政策に対する価値判断を迫られるという風潮があったのではなかろうか。戦後の「平和国家」としての歩みを肯定するのか、それとも、それを批判し「普通の国」への脱却を主張するのか、そして、その象徴たる護憲・改憲問題をどのように考えるのか、あるいは、そもそも自衛隊の存在を肯定的にとらえるのか、「平和国家」には無用のものして否定的にとらえるのか。これらの点についての政策論的見解を表明せずして防衛問題を論ずることは難しかったといえるだろう。1980年代前半、戦後日本の防衛政策に関する先駆的研究を著した大嶽秀夫氏は、日本の防衛政策が他の政策領域と同様に、実証的な研究の対象として十分成立しうることを説いた(2)。逆説的だがこのことは、それまで日本の学界において、戦後日本の防衛政策が、広く研究の対象として扱われてこなかったことを表していよう。池井氏の言葉にならっていうならば、この分野は、歴史研究の対象としては、長く「不毛」だった時代続いていたのである。
本書は、こうした戦後日本の防衛政策を対象としている。
後述するように、最悪ともいえる資料面での制約は徐々に改善の方向に向かいつつある。また、「国内冷戦」の終焉は、防衛問題を対象とした歴史研究を、イデオロギー論争から、完全ではないにしても解放した。このような状況を反映してか、ここ10年ほどの間に、植村秀樹氏や佐道明広氏らによって、この領域を歴史研究の対象として分析しようとする試みがなされている(3)。筆者はこれらの研究も踏まえつつ、戦後日本の防衛政策を歴史的に論ずる。
「冷戦期」と呼ばれた時代が終わりを告げてから、早、10年以上の月日が流れた。当時、世界の将来像を明るいものとして描いた知識人も少なくなかったが、今となってはそうした楽観論が隆盛だったことすら歴史の一局面になろうとしている。各地で頻発する民族紛争、そして、2001年9月11日にアメリカと世界を震撼させたテロと一連の「対テロ戦争」。現在世界が直面しているのは、新たな「戦争」の時代でもある。
こうした時代の中に日本もいる。日本はいかに対処すべきか、あるいは主体的に何をすべきなのか。様々な分野で議論が行われている。それは安全保障の分野でも例外ではない。国民の生命と財産に深刻な影響を及ぼしかねない問題であるだけに、真剣に、かつ慎重に方向を定めていかなければならないだろう。防衛庁・自衛隊に関していえば、「政策官庁」としてのあり方をめぐる議論が以前にもまして高まり、米国との関係についても、日本の国益の中で対米協力をいかに位置づけるのかが改めて問われている。将来、21世紀初頭という時期が、防衛政策の分岐点だったといわれる日が来るのかもしれない。
本書の内容は、日本が現在直面するこれらの政策課題に直接関わるものではない。また筆者は歴史からの教訓めいた要素を抽出するつもりもなく、その力もない。歴史は、その時代、その場所等に固有の条件に属し、その意味で、後世まったく同じ現象が再現されることはあり得ない。ただ、戦後防衛政策の歩みを冷静に振り返り、歴史的な研究が蓄積されることは、将来に関する議論を深める上でも、その基礎的な材料を提供することになるだろう。本書は、そのささやかな試みでもある。
|