『感情と法――現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』
「訳者あとがき」抜粋
河野哲也
立教大学文学部教育学科教授
法とは何か。法と道徳とは、どのように関係するのか。これらの問題は、古代ギリシア・ローマ以来、哲学の中心テーマの一つであった。近代哲学を見れば、ヘーゲルやベンサム、ミルを代表として、一九世紀中頃までの哲学者たちは、道徳や国家の問題と関連させながら、しばしば法について議論していた。
しかしながら現代では、法律は外部者にはきわめて近づきにくい専門領域となり、さらに、法哲学は、もっぱら法学部の中で研究されるようになった。一般の哲学者は、おいそれと法の問題に口をさしはさむことはできなくなり、法学と哲学は疎遠な関係になってしまった。
常々、人々を裁いているにもかかわらず、法は、あまりに一般の人からかけ離れた領域になってしまったのではあるまいか。おそらく、そうした危惧は、日本の法曹界の人々にも共有されていたのであろう。今年度(二〇〇九年)から始まった裁判員制は、法を適用する権能(司法権)を本来の持ち主(主権者)へと選抜的に返還する制度であると解釈できる。
裁判員制の導入は、行政の透明化や情報公開、政策決定のための住民投票などとともに、参画型民主主義、あるいはディープ・デモクラシーの進展にともなう必然的な流れである。
しかし一般の主権者は、法の詳細について知らない。それにもかかわらず、司法権を行使するには、法(特に刑法)の根源をなす道徳の哲学を持たねばならないだろう。ヌスバウムは法哲学の教授であるが、法学者ではない。哲学の任務は、ある専門知識が本当に妥当なものであるかどうか、人間に有益なものであるかどうかについて、一般市民の立場から素朴だが根本的な問いを立てて検討することにある。古代ギリシアで始まった哲学は、民主主義社会の一般市民のための知である。法を根底から吟味する視点は、裁判員制の時代に生きる私たち主権者=市民に欠かせないものであろう。
ヌスバウムが本書で探究しているのは、はたして法は、どのような人間の本性に根差しているのかという問いである。これまで、法は、公平ではあるが無情でもある理性の秩序として捉えられてきた。無私であるが冷厳な法律家のイメージもここから来ている。これに対して、ヌスバウムが本書で示しているのは、法の感情的な起源である。殺人に関する法は、理性の命令ではなく、殺人に対する私たちの真っ当な怒りを、言葉として表明したものである。つまり、法とは、ヌスバウムによれば、ある社会の成員が共有すべく求められている感情の表現なのである。
しかし感情には、善き感情と悪しき感情がある。嫉妬などは他者の没落を願う悪しき感情である。法は善き感情に基づいていなければならない。嫌悪感や羞恥心は、根源的には人間の上下位階を前提としている点で民主主義的ではない。よって、法の基盤として不適格な感情である。人間の平等を侵害するものへの怒り、そして、他者への共感。これらの感情こそが法の基盤となるにふさわしい。こうヌスバウムは主張する。道徳を適宜性のある感情に基づかせようとする点で、ヌスバウムは、ハッチソンやアダム・スミスのようなスコットランド道徳哲学の系譜と比較することもできるだろう。
以上のヌスバウムの観点から考えてみるならば、復讐という感情に基づいた法は正しいものでありうるだろうか。死刑の是非の問題を考えるにあたっても、本書は多くの示唆を与えてくれるだろう。
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