『倫理的な戦争 ――トニー・ブレアの栄光と挫折』
刊行にあたって
細谷 雄一 (慶應義塾大学法学部准教授)
本書は、1997年から2007年までの十年の長きにわたってイギリスの首相の地位にあったトニー・ブレアを中心に位置づけて、イギリスが関与したイラク空爆(1998年)、コソボ戦争(1999年)、アフガニスタン戦争(2001年)そしてイラク戦争(2003年)を論じたものです。もしかしたら「倫理的な戦争」という本書のタイトルを見て、少なからぬ読者の方がいぶかしく思われるかもしれません。私たちの一般的な認識では、戦争が「倫理的」であるはずがないからです。戦争そのものこそが「悪」であり、それを避けることが戦後日本における最高の政治的道徳であったはずです。そのことは私自身も十分に認識しております。それを前提にしながら、本書では1990年代半ば以降に国際政治の新しい潮流となってきた、人道的・倫理的な目的を掲げた軍事介入の意味を検証することを目的としております。
本書の「はじめに」の中でも書きましたとおり、私は必ずしも「戦争が倫理的である」と主張しようとしたわけではありませんでした。そうではなくて、世界に依然として残っている専制的政府による民族浄化などの非人道的な政策を、倫理的な目標を掲げて軍事的な強制力を用いて阻止しようとする政治的な試み、すなわち本書でいう「倫理的な戦争」を、同時代史的なアプローチで批判的に検証することを目的としたのが本書です。いわば、「悪」を排除しようとして軍事的強制力を用いるブレアの倫理的な意図と、そのような軍事力行使によって産み出される非倫理的な「悪」を、可能な限りバランスよく冷静に描くことを試みました。それはとても難しい作業で、どの程度それに成功したのかは読者の諸賢の判断を待ちたいと思っております。
しかしそれ以上に大きな本書の目的とは、冷戦終結後の世界において、1990年代半ば以降広がっていった新しい国際政治の潮流を、ブレア首相の政治指導を中心に描くということでした。いわば従来の一般的な認識から変化が生じ、道徳的な問題や規範的な問題が国際政治を論じる上で中心的な位置を占めるようになったのです。それまでは国際政治を、何よりもパワーや国益の観点から論じるのが主流であったのですが、「CNN効果」などによって一般の視聴者が人道的な惨状を直接テレビの映像を通じて目にするようになり、さらには人権NGOの発展が西側政府に対して積極的な行動への圧力をかけるようになったことも影響し、非人道的な惨状を放置することに対する批判の声が強まってきたのです。
1994年のルワンダ大虐殺で80万人が、そして95年のスレブニッツァにおいて20万人が虐殺されたと報じられていますが、これら100万人がわずか1年ほどの短い期間に殺戮されたことに国際社会は無関心でした。自らの国益や国家安全保障に直接関係ないと感じたからです。それ以前も、ナチス時代のヨーロッパ、スターリン時代のソ連や、ポルポト時代のカンボジアなど、20世紀の歴史の中で膨大な数の無実の人々が殺されてきました。独裁国家の中で行われる殺戮に対して、それらの諸国が外交交渉を拒んだ場合に、軍事的な手段を用いてでもそれらを食い止める必要があるという新しい規範が、冷戦後の国際社会で巨大な勢力となって浮上してきました。いわば従来の主権不干渉原則を越えて、国際社会の人道的な問題に介入すべきだという潮流です。そのような潮流を敏感に感じ、真剣に受け止める新しい世代の中心人物が、このトニー・ブレアだったのです。しかしそのようなブレアの試みも、大きな限界につきあたりました。
イラク戦争における米英両国政府の挫折は、これらの問題に関する取り組みを根底から問い直す機会を提供しました。はたして、「善」なる目的を掲げて、国境を越えて「正義」を実現することは可能なのでしょうか。それは好ましいことなのでしょうか。それが困難であるときに軍事的な強制力を用いることを、どのように考えるべきなのでしょうか。本書が問いかける問題群はむしろ、イラクやアフガニスタンの情勢が混迷を深めている現代においてこそ、より重要になっているようにも感じます。そして、1998年のイラク空爆から2003年のイラク戦争に至るまでの5年間の経験を慎重に検証することで、今後の国際政治に必要ないくつかの教訓を導くことが出来ると考え、終章では「戦争の教訓と未来への展望」と題してそれらを描いてみました。
私はこれまで、イギリス外交史を専門として、ヨーロッパ国際政治史についての研究を中心に研究を刊行してきました。現代の問題を直接論じて単著をまとめるのは、はじめての機会となります。しかしながらそれを行う方法としては、資料的な限界を認識しながらも、可能な限り歴史的なアプローチをとっております。資料をもとにして、冷静かつ客観的に大きな時間の流れを紡ぎ出しております。過去の難しい問題に目をつぶることなく、それを直視してそこから教訓を摘みとって、今後の国際政治を考えることこそ私たちに求められていることだと感じております。本書をお読みになる一人でも多くの方々がそのような問題意識を膨らませて頂ければ、著者としてはこれにまさる喜びはありません。 |