慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第89回──三田評論 2014年4月号    
 

望郷詩人──南紀の佐藤春夫

 
 
 
     
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎教諭)  
     
 

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速玉大社と佐藤春夫記念館

 熊野川の河口に開けた新宮は、江戸時代は紀州徳川家付家老水野家三万五千石の城下町となり、昭和三十年頃までは熊野材の中継地、製材業で繁栄した所である。そして何より熊野三山に数えられる熊野速玉大社の門前町として栄えた町である。



 本町通りを西に行くと、突き当りに速玉大社がある。その大鳥居の手前左に「秋晴れよ 丹鶴城址 児に見せむ」という春夫詩碑(昭和六十二年建立)がある。表参道を進み、
神門手前の右、手水舎の奥の土塀に春夫作の「望郷五月歌」の陶板がはめ込まれている。詩の冒頭の十九行が記されているが、「空青し山青し海青し 日は輝かに南国の五月晴れこそ ゆたかなれ」で結んでいる。昭和三十四年の除幕式には、春夫夫妻に門弟の壇一雄も参加している。



 「望郷五月歌」の詩碑の奥には、「佐藤春夫記念館」がある。春夫は、東京の関口町(現文京区関口三-六-一六)に初めて自宅を建て、終生そこを住まいとしたが、その建物を移築復元し、平成元年に「佐藤春夫記念館」としてオープンした。



 記念館に入り、細い廊下を進むと左手に応接間が目に入る。中国風のロビーという感じで、マントルピースの前に畳三畳を敷いた洋間である。門弟柴田錬三郎は、春夫の一周忌に次のメッセージを寄せている。「先生の坐られる場所は暖炉を左に見る窓際であった。先生はそこで大きな耳をこすりライターを鳴らし乍ら話をされた。そこには、いつも春風が吹いていた」



佐藤春夫記念館 応接間


 二階に上がると、親友の堀口大學が語っている八角塔の書斎がある。「そのころ、佐藤君、狭い書斎がすきでしてね。あの家の二階に塔みたいな部分があるのですよ。そこに二畳の部屋をこさえまして、ずいぶん長い間、そこを書斎にしておりました。枕の上とか、狭いところで仕事をすることが好きなのですね。大きな書斎なんか、かまえたことないのじゃないですか」



 展示品は、著書の初版本、自筆原稿、自作詩歌の書、春夫が描いた絵画、愛用品など豊富に揃っている。



 誕生地と生育の地の中ほどに新宮市市民会館があるが、そこに春夫愛用の万年筆と毛筆を納めた「佐藤春夫 筆塚」(昭和四十一年建立)がある。那智黒石に刻まれた「佐藤春夫筆塚」の文字は、堀口大學による。毎年十一月三日、ここで筆供養が行われているが、その時に「黒潮巡る紀の南 熊野の都新宮市 蓬莱なりとその昔 徐福もここに来たりとか山紫に水明く人朗らかに情けあり」という春夫作詞、信時潔作曲の「新宮市歌」が歌われている。



 新宮から紀勢本線で十五キロ南下すると紀伊勝浦駅があり、その駅前に、春夫が思いを寄せていた谷崎夫人千代とその子鮎子と三人で囲んだサンマの夕餉を詠んだ「秋刀魚の歌」の詩碑がある。

 

ゆかし潟

 那智勝浦駅から国道四二号線で三キロ弱南下すると「ゆかし潟」という周囲二・二キロの汽水湖があり、国道脇に「佐藤春夫命名 ゆかし潟湯川温泉」という大きな看板を目にする。そして国道を挟んだ反対側に「なかなかに名告ざるこそ床しけれ ゆかし潟ともよはゝ呼はまし」という春夫が名付けたゆかし潟を詠んだ「佐藤春夫先生之歌碑」がある。




佐藤春夫 筆塚


 春夫は、全国の六十校余りに及ぶ校歌を作詞している。新宮市では丹鶴小学校(春夫の母校、新宮第一尋常小学校であった。現在は統合され敷地も代わり神倉小学校となっている)、新宮商業高校(新翔高校になっている)、緑丘中学校、周辺では熊野市の木本高校、木本中学校、木本小学校、紀宝町の鵜殿小学校、紀宝町矢淵中学校、那智勝浦町の浦神小学校(廃校)、下里小学校、下里中学校、古座川町の古座中学校がある。慶應関係では、「普通部の歌」(堀内敬三作曲)、幼稚舎創立八十周年を記念してつくられた「幼き塾生の歌」(山田耕筰作曲)、幼稚舎創立九十周年を記念して「福澤諭吉ここに在り」(信時潔作曲)を作詞している。



下里の墓所

 昭和三十九年五月六日、先の応接間で朝日放送の「一週間自叙伝」を録音中、心筋梗塞の発作を起こし、間もなく息を引き取った。七十一歳であった。春夫の墓は、本墓所の京都知恩院、他に小石川の伝通院、明石の無量光寺、そして下里にある。「懸泉堂」の前の道を右にとって行くと下里小学校のグラウンドが見え、グラウンドの向こうに見える共同墓地の山側の石垣の上に佐藤家の墓所がある。多くの墓石の中で、春夫と千代夫人の戒名を記したものがある。



 春夫の戒名は「凌霄院殿詞誉紀精春日大居士」。凌霄花はノウゼンカズラと呼ばれ、赤オレンジのラッパ状の花を咲かせ、春夫が「不老不逞でわが文学の象徴」として愛した花である。記念館入口のアーチの門、かつての自宅の門の屋根瓦にノウゼンカズラの蔓が這っていた。  

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三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

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2015年7月号掲載

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金玉均


2015年6月号掲載

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2015年4月号掲載

第98回
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2015年3月号掲載

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2015年2月号掲載

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2014年10月号掲載

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2014年6月号掲載

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──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

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2013年10月号掲載

第82回
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──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
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2013年6月号掲載

第79回
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2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


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