慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第86回──三田評論 2014年1月号    
 

新田運動場

 
 
 
     
  大澤 輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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慶大グラウンド前駅

 大正十五(一九二六)年八月六日、池上電気鉄道の慶大グラウンド前駅が開業した。近くに同十二年五月開業の光明寺駅があったが、当駅開業により後に廃止となった。これは、それに先立って同十二年十一月一日に目黒蒲田電鉄の新田駅として開業し、同十三年四月一日に武蔵新田駅と改称となった駅を使って新田運動場を利用する客を奪うための戦略であった。設置当初は東京六大学野球などが開催された場合のみに営業した臨時駅であったが、のちに正式な駅に昇格した。

 


新田運動場平面図(『慶應義塾75 年史』より)

 

 当時の首都圏の各私鉄は旅客獲得に必死であった。
池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄も、その路線が並走していることから、激しい競争を展開した。まず、衆議院議員(後に貴族院議員)で実業家の高柳淳之助が支援する池上電気鉄道が、大正十一年十月六日に池上ー蒲田間を開業した。池上本門寺への参詣客の利用を見込んだもので、事実開業直後に開かれた本門寺のお会式に多くの乗客が詰め掛け、順調な滑り出しを見せた。一方、翌十二年に目黒蒲田電鉄は、目黒ー蒲田間十三・二キロメートルの鉄道を全通させ、目蒲線と呼称した。
その三年後の十五年七月に、矢口駅(現矢口渡駅)ー蒲田駅間に本門寺道駅が開業した。これにより、本門寺への新しいルートができ、参拝客の奪い合いを演じたのである。

 

 

 こうして本門寺をめぐって、参拝客を争奪し合った両社は、続いて慶應の新田運動場を巡って競合し始める。運動場の所在地は矢口であったが、最寄り駅が目蒲線の武蔵新田であったので、「新田運動場」と呼ばれるまでになったのであるが、もう一方の池上電気鉄道は、運動場から一番近い駅である光明寺駅までは、嶺鵜耕地整理組合(地元の字であった嶺町と鵜の木の意)による耕地整理前のため、直結する道路がないという決定的な欠点があったのである。本門寺道駅開業の報復に燃えた池上電気鉄道は、光明寺駅の東の池上駅寄りに慶大グラウンド前駅を臨時駅として開業申請した。
しかし、この初代の慶大グラウンド前臨時駅は、耕地整理の延期による道路整備の遅れから、新田運動場から池上線線路の最短地点には設置できなかったのである。
その後、嶺鵜耕地整理組合内の事業地に駅の場所を確保し、移転と同時に臨時駅から昇格した。駅東側に接する南北を走る道路は、南方向に進むと、新田球場と陸上競技用トラックを有する運動場のちょうど真ん中に出ると、立地条件も良くなったのである。正に最寄りの場所に駅の移転と恒久化を見たのであったが、今度は西の光明寺駅との距離が二百メートルほどに狭まるという新たな問題が発生してしまったのである。
そこで池上電気鉄道は光明寺駅を廃止したのであった。

 

運動場移転、駅名変更

 その後、目黒蒲田電鉄を経営する五島慶太が「目蒲と池上電気鉄道の無駄な競合は避けるべきだ」と川崎財閥の川崎肇に直接掛け合い、昭和九年十月一日に池上電鉄は目黒蒲田電鉄に吸収合併された。
それと期を同じくして、慶應義塾は日吉の新校地に新たなグラウンドを設けて、新田運動場の土地を手放したのであった。両社合併後の、同十一年一月一日に、本門寺道駅は道塚駅と改称、慶大グラウンド前駅は場所を元あった光明寺駅の東近くに戻し、当時の地名であった東京市大森区調布千鳥町に由来した千鳥町駅となったのである。

 

 

 昭和十四年十月十六日、五島は臨時株主総会を開催し、社名を(新)東京横浜電鉄株式会社と変更し、東横線、玉川線(玉電)、目蒲線、池上線が同一の経営傘下に収められた。さらに、同十七年五月一日に陸上交通事業調整法の趣旨に則り、京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、社名を東京急行電鉄株式会社(大東急)と変更した。加えて、同二十年四月の空襲で蒲田周辺が焦土地帯になり、蒲田駅も壊滅してしまった。そして、従来蒲田駅は池上線と目蒲線で駅が別の場所にあったが、池上線の駅に乗り入れる新線を建設することで運行を再開したことにより、道塚駅を含む旧線が廃止されたのである。

 

 

新田運動場跡地

 日吉の新校地に運動場が設置され、新田運動場は売却されることとなり、昭和十一年十一月にまず観客席を、土地は同潤会に、同十三〜十四年にかけて売却された。
同潤会は関東大震災の義捐金をもとに、内務省によって同十三年に設立された財団法人で、東京と横浜において住宅供給を行った。十六カ所の集合住宅「同潤会アパート」の建設で知られている。売却後、日中戦争中の同十四〜十五年に、職工向け住宅として同潤会が分譲した調布千鳥町住宅となり、工業地帯に進みつつあった当該地域に相応しい、工場勤め人向け住宅が建設された。

 

 運動場跡地は、現在の東京都大田区千鳥二丁目のうち、十二番の西側部分、十三〜二十五番、二十九〜三十二番、三十五番、三十七番の北側部分にあたり、住宅地の中に保育園などがあるが、今日でも運動場の区画が建物の区画から読み取ることができる。

 

 

 

 

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