慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

慶應義塾の風景
三田評論表紙
2016年7月号表紙


space今月の特集spaceKEIO PHOTO REPORTspace立ち読みspace三田評論とはspace次号予告space前号紹介spaceバックナンバーspace講読方法space
  メインページ->立ち読み  
  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第65回――三田評論 2012年2月号    
 

善福寺・龍源寺・重秀寺ーー福澤家ゆかりの寺

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

12
 
 

 

 毎年二月三日の福澤先生のご命日には、早朝から塾生・塾員、果ては受験生までが、善福寺の先生の墓前に長蛇の列を作る。今回は福澤家の墓所にまつわる史跡を巡る。

 

 


麻布山善福寺

 

 麻布山善福寺は、天長元(八二四)年に弘法大師が西の高野山に模して東の麻布山として創建したと伝えられ、都内では金龍山浅草寺に次ぐ歴史を誇る寺院である。時代は下って鎌倉期、越後に流されていた親鸞が、許されて京に上る途中に善福寺に立ち寄った際、善福寺秀英の僧と呼ばれた了海上人が親鸞の教えに傾倒し、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗し、現在に至っている。

 

 戦国期には小田原の北条氏に対抗するほどの勢力を有し、織田信長の石山本願寺攻撃の際には、援軍を送り込んだ。江戸時代に入っても、三代将軍徳川家光の参詣があるなど、江戸きっての大寺・名刹であった。『江戸名所図会』の「麻布 善福寺」の項には、「麻布雑色にあり。昔は亀子山と号しけるとぞ。親鸞上人弘法の地にして、当宗関東七箇の大寺の一員、了海上人開山たり」とある。仙台坂下から麻布十番に抜ける門前の通りに、「雑式通り」の名が残っている。また、文中「昔は亀子山と号しける」とは、家光が、麻布山の山形から亀子山と命名し山号を麻布山善福寺から亀子山善福寺と改名させた事による。家光歿後再び麻布山に戻ったが、その時の片鱗である「亀子山」の文字が現在も本堂脇の玄関の額や手水舎に見える。

 

 安政六(一八五九)年になると、善福寺は初代アメリカ合衆国公使館として、タウンゼント・ハリス公使以下の館員を迎えた。その頃、尊皇攘夷を唱える水戸浪士一派の襲撃を受け、庫裏・書院などが焼失したが、その後も明治八年まで、公使館として利用された。

 

 昭和十一年十二月十九日に、ハリスの通訳見習官を務め、面識のあった中で唯一の生存者であった益田孝が、日米協会長徳川家達(いえさと)と、藤原銀次郎等と、朝倉文夫作のハリス顕彰碑を建立し、当時のグルー米国大使夫人の除幕で、内外数百名の参列者のもとに盛大に式典が行われた。しかし太平洋戦争が始まると当局より碑を撤去するよう命令があったが、当時住職であった麻布照海が碑に菰(こも)をかぶせて地中に埋めて、戦災よりこれを守った。昭和三十五年五月十二日、復元され、ダグラス・マッカーサー二世米国大使をはじめ多くの参列者のもと、再び除幕式が行われた。

 

 昭和二十年の戦災で、本堂をはじめ境内の建物全てが焼失した。現在の本堂は、徳川家康が京都に東本願寺本堂として建立し、その後大阪府八尾市の本願寺別院に移された建物を更に移築したものである。境内には親鸞上人が土に刺した杖が根付いたと言われる、都内最大の銀杏で天然記念物の「逆さ銀杏」や、門前には弘法大師が錫杖(しゃくじょう) を刺して湧き出させたという「柳の井戸」などの名所もある。

 

 福澤先生が善福寺の檀家になった経緯は明らかでないが、福澤家の宗旨が浄土真宗で、三田の自宅から近かったということも理由として考えられる。先生は、善福会という信徒の組織を作るなど寺の発展にも貢献した。

 

 


龍源寺・重秀寺


 

 明治五年七月、先生の妻お錦(きん)が死胎の女児を分娩した。それまでに、一太郎、捨次郎、お里、お房の二男二女をもうけ、これは五度目の出産であった。先生はその亡骸を三田古川橋の近くにあった龍源寺に葬り、正面に「自覚孩女」、左側面に「父福澤諭吉/母阿錦/明治五年七月二十二日死胎」と刻んだ小さな石碑を建てた。中津藩士であった福澤家は、先生の代になるまで藩地の中津に墓所を持っていたので、これが東京における福澤家最初の墓地となった。

 

 福澤家の宗旨は浄土真宗で、中津桜町明蓮寺の門徒であった。龍源寺は臨済宗妙心寺派の禅寺であって宗旨違いではあるが、江戸に知り合いの寺がなかったため、中津藩主奥平家と縁のある龍源寺に新墓地を設けたのであろう。その昔、奥平家が山形から宇都宮に移封された頃の領主昌章(まさあき)らが、この龍源寺住職伽山和尚に深く帰依していたので、それ以来奥平家から浅からぬ庇護を受けており、藩主の墓はなかったが多くの家臣藩士はこの寺を菩提所としていた。これに先立って先生は、明治三年四月、新銭座に収容しきれなくなった五十余名の塾生を受け入れる「外塾(そとじゅく)く」を、龍源寺に設けている。

 

 翌明治六年十一月、先生はこの墓所に福澤家の略譜を記した「福澤氏記念之碑」を建てた。続いて明治七年五月八日、先生の母お順が歿し、翌九日に同じく龍源寺の墓所に埋葬された。墓所までの葬列の際、先生は黄八丈の着物にパッチを穿はき、尻端折で、一太郎、捨次郎の二子を伴ったと言われている。母お順の墓石には、「福澤百助之妻阿順之墓」と正面に刻し、側面には生死の月日、父、夫、子女の姓名がある。

 

 明治十年、福澤家に死胎の男女の双子が生まれた。これを芝白金の臨済宗妙心寺派重秀寺の墓地に葬った。これはお順の歿後、「朱引き」という制度が出来て、皇居から一定距離の範囲内では土葬が禁じられたため、龍源寺に埋葬出来なかったからである。石塔には、「自音孩子」「自性孩女」と法名を彫った。次いで、明治十二年十一月六日、十九歳の時から九年間福澤家に奉公した、下僕の勝蔵が、お里、お房の二人を人力車に乗せて牽ひいている際、愛宕下近辺で心臓発作を起こし急死し、これも双子と同じ重秀寺墓地に葬った。従って、この時点で福澤家の墓所は所存在していたわけである。

 

 先生は、新しい福澤家の墓所について気に掛けていた。あるときは、大阪、徳島慶應義塾に学んだ真浄寺住職寺田福寿を伴って、大森辺りまで墓地探しに行ったこともあったと言う。更に、明治二十四年八月に東京市十五区と八王子市で土葬が禁止となり、菩提寺善福寺や龍源寺ばかりでなく、新たに設けた重秀寺でも土葬が出来なくなってしまった。そこで先生は、日課の散歩の道筋にあり、初代幼稚舎長和田義郎の墓のあった、市外の目黒村大字上大崎の墓地を購入し、明治二十九年、龍源寺にあった先生の母お順の墓、死産の女児の墓、福澤氏記念之碑、そして、重秀寺の墓を、全て上大崎の墓地に移した。これで東京にある福澤家の墓地は一カ所に纏(まと)まとまったのである。この上大崎常光寺の墓地については、『三田評論』平成二十二(二〇一〇)年二月号の本連載「常光寺―福澤先生永眠の地」に詳細が記してある。

 

龍源寺

 

 

 

line

 

これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

これ以前の連載はこちら

 
 
   
line  
 
 
 
  12  
 
TOPへ戻る
 

 

 
Copyright (C)2004-2010 Keio University Press Inc. All rights reserved.