慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第60回――三田評論 2011年8・9月合併号    
 

中庭と「慶應讃歌」

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾大学看護医療学部教授)  
     
 

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創立九十年記念式典

 

 義塾は大戦で大きな被害を受けた。広場周辺の光景も一変した。大講堂は焼け落ち、壁のみが残っていた。現在の南校舎の辺りにあった、商工学校の校舎も焼失した。

 

 大講堂を失った義塾は、それから創立百年の時に日吉記念館が完成するまで、即ち昭和三十三年の卒業式、入学式までは、大人数の式典は、この広場で、野外で挙行しなければならなかった。第一校舎から南側には建物が何もないので、「中庭」とは言えない寂しく広大な広場である。

 

 第一校舎南側のこの広場で開かれた式典の中で忘れてはならないのは創立九十年の式典である。甚大な損害を受けた義塾は、義塾の復興と日本の復興の契機にと、九十年を一年早い数えで昭和二十二年に祝ったのであった。

 

 五月二十四日の記念式典は、第一校舎を背に設けられた御席に天皇陛下をお迎えしてはじまった。好天に恵まれたが風も強い日で机の上におかれた陛下の帽子が飛ぶというハプニングもあった。「三田新聞」は、「陛下はお気軽に立たれて、これをお拾いになった。その話をきいた三田の商店のおやじさんが、軛御自分の御帽子をおひろいになる、これが人間天皇ですね軋といったようにまことに自然な一瞬間であった」と記した。

 

  式典は、陛下が御退席された後、ワグネル・ソサィエティーによる「慶應讃歌」の合唱、慶應義塾万歳の三唱で締め括られた。

 

 「慶應讃歌」は、この慶應義塾創立九十年を記念して作られたもので、この式典の前日、記念祭の幕開けとなった、マンドリン倶楽部の日比谷公会堂での定期演奏会の冒頭で披露されたばかりであった。

 

 作詞作曲者の平岡養一は、幼稚舎から義塾に学んだ木琴奏者で、昭和五年に渡米してからアメリカで活躍していた。しかし、開戦により交換船で帰国、当時は、野球部ОBの邸宅に居候していた。そこには野球部員や応援指導部員もよく出入りしていたので、彼らと親しく接しているうちに、「久し振りに慶早戦の気分に浸っている中に私の心の中に産れたのがこのメロディーであった」という。後に平岡は、歌詞にこめた思いを次のように説明している。

 

 「一番はこの虚脱と混迷から何としても立直らねばならぬ祖国日本、それをもり立てる若き力の中心点は誰よりも母校慶應義塾の塾生達でなければならぬことを盛り込もう。二番は早慶戦の勝利の歌。そして締めくくりの第三節には兼ねてから私の心の中にいつも抱いていた一つの理想、即ち世界で一番すばらしい我等の母校、第二の故郷である三田の山を巣立った我々塾員達が生命の続く限り、死ぬ迄誇りと愛情を以て母校義塾を讃える歌があって欲しいという、私の小さな夢を実現したいという望みと願いを実現しようというものである。」(『塾』昭和五十四年八月刊)

 

 平岡は、その後も、歌手藤山一郎、詩人藤浦洸らと共に、応援指導部員の良き相談相手であった。その中から、早慶戦の前夜祭である「慶應ラリー」も生まれた。第一回目は、昭和二十五年五月に、芝スポーツセンターで開かれて盛況であったが、同年秋には、三田山上で開催されている。その時の写真を見ると、第一校舎を背にステージが作られ、そこから今日の中庭一帯が大勢の塾生で埋まっている様子がよくわかる。

 

 昭和三十三年に創立百年を迎えた義塾は、第一校舎の南側に南校舎を、そして大講堂のあった位置に西校舎を新築した。以来、ようやく「中庭」となったこの広場で、入学式や卒業式が行われることはなくなったが、現在も三田祭、優勝祝賀会等では若人の歓喜の声がこだまする、塾の歳時記になくてはならない場所となっている。

 

 

「慶應讃歌」の意気を継いで

 

 今春の優勝祝賀会に話を戻そう。壇上からの応援指導部員の塾生注目はどれもが、この日の喜びを日本の
復興に貢献する力にしようという思いのこもったものであった。

 

 「慶應讃歌」を肩組んで歌う時、副将の鈴木聖也君は、塾生注目で、次のように叫んだ。「一番は戦後日本の復興を若き塾生に託した!

 

 我々塾生が日本を一つにして日本を復興しようではないか! ここにいる全員が一つになって日本を復興させようではないか! 慶早戦に勝って、慶應が元気になって、日本が元気になればいいではないか! こういう時こそ社中一つになろうではないか!」

 

 いつもの祝賀会であれば、塾生は「栄えに輝く三田の山……かゞり火映ゆる丘の上、凱歌を挙げん高らかに」の二番に、塾員は「ああ美しき三田の山……月去り星は移るとも、夢に忘れぬその名こそ」の三番に思いが深くなるものである。しかし今年は、「光あふるゝ三田の山、……我等が若き力以て、理想の祖国を打建てん」の一番の歌詞の意味をかみしめた人が多かったに違いない。

 

 

 

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