慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第58回――三田評論 2011年6月号    
 

三田の植物

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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浜木綿

 浜木綿(はまゆう)は、ヒガンバナ科の多年草で、花の様子が木綿(ゆふ)を垂らしたようであることが名の由来である。木綿はコウゾなどの樹皮を細く裂いて作った繊維から作った布で、古代から神事などに用いられてきたものである。花は八月に見ごろを迎える。水はけが良く日あたりの良い場所を好み、主に温暖な海浜で見られる。道ばたや公園、庭に植えられることもあり、宮崎県の県花となっている。

 

浜木綿
浜木綿

 

 柳弥五郎は、明治二十九(一八九六)年九月入社(『慶應義塾入社帳』より)。塾生時代はボート、柔道、野球その他の万能選手として鳴らし、硬派の旗頭でもあった。社会に出てからは郷里和歌山で過ごし、太平洋戦争中は和歌山県海南市の名物市長として軍部としばしば渡り合った反骨の人でもあった。そんな柳だが趣味の点では意外な一面があった。それは浜木綿に魅せられていたことである。晩年を過ごした堺市浜寺(現大阪府堺市西区)の自宅の庭は千本をこす浜木綿で埋められていた。

 

 

 その柳が、義塾創立百年に当り、何か母校に寄贈したいと考えた末思いついたのが、三田と日吉のキャンパスに浜木綿を植えることであった。翌昭和三十四年、常任理事会で受入れが決定するや、浜木綿をトラック一杯に積み込み、浜寺から夜を徹して東海道を東京まで運んできた。塾では三田と日吉に植えることにし、三田は旧南校舎の西半分の前庭に、日吉は記念館前の広場がその場所に予定された。問題は冬である。霜に弱いだけにそれをどう防ぐかに塾でも頭を痛め、結局、一本一本に藁で霜よけをつけることにした。これが功を奏したのか、三田では翌年も生き生きとした葉と花をつけたが、日吉ではやはり無理だったようで、根づかなかった。そんなことを二、三年繰り返した末、柳の助言もあり霜よけをやめてしまったが、すっかり三田の土壌に馴染んだせいか、南校舎改築前までは、見事な浜木綿の群生林となって、夏期スクーリングの塾生たちを多くの白い花が迎えていた。

 

 

 平成二十一年六月の南校舎の建て替え工事に伴い、約十株が桜田通りを隔てて建設された南別館の屋上に移植され、残りは義塾と契約している造園業者が管理している。新しい南校舎前のツツジも見事ではあるが、三田キャンパスで浜木綿の姿を再び見ることができるのかが気がかりである。

 

 

 

 椨(たぶ)の木は、クスノキ科タブノキ属の常緑高木である。イヌクス・タマクスとも称される。東北地方から九州・沖縄の森林に分布し、とくに海岸近くに多い。照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っている。

 

演説館前の椨
演説館前の椨

 

 文学部教授で、中等部の主事や、常任理事も務めた池田彌三郎は、民俗学者・国文学者の折口信夫に師事した。国文学、民俗学の研究者としてはもとより、数々の随筆や、ラジオ、テレビに数多く出演し、初期の「タレント教授」としても知られている。

 

 

 定年退職の年であった昭和五十五年三月七日に、池田は三田を去るにあたって、かつて義塾で教鞭をとった折口信夫が終生愛着を持ち続けた椨の木八十本ほどを、先師をしのぶ「よすが」として、演説館前に三十本、その崖下の正門脇に残りを植樹した。植樹にあたっては、生態学者で、「混植・密植型植樹」として鎮守の森の重要性を提唱する、宮脇昭横浜国立大学教授の尽力を得た(本誌平成十九年十一月号「慶應義塾、一枚の写真」参照)。

 

 

 この計画は、同四十八年の折口没二十年記念事業に端を発している。折口は著書『古代研究』の口絵に「たぶのきの杜」を多く使っているが、その意図を明らかにするものは何も残さず、また池田ら弟子たちにも何も話していなかった。折口が椨を好んだ理由を、池田は記念事業を機に明かそうと試みたのであった。結果、椨は、今でこそ神社など限られたところでしか見られなくなったが、もともとは日本古来の植物で、椎などと同じように広く原生していたことが分かった。だが折口の研究と特別な関わりは何も発見できなかった。しかし、椨の歌をいくつか詠み、石川県羽咋(はくい)市一ノ宮町にある墓も椨の林の中にあることから、記念樹として選ばれた。

 

 

 池田は義塾を退いた後、洗足学園魚津短期大学で教鞭をとったが、同五十八年に六十七歳でその生涯を終えた。この椨も南校舎建て替えで、演説館前のものは残ったが、正門左脇の崖下にあった大部分は、その姿を消してしまった。

 

 

 

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