慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第43回    
  常光寺――福澤先生永眠の地
 
 
 
  山内慶太(慶應義塾大学看護医療学部教授)  
     
 

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 2月3日は福澤先生の御命日である。毎年この日は、先生の墓所の麻布山善福寺に、早朝から夕方まで墓参に訪れる塾生、塾員の列が絶えることはない。福澤先生の墓所が善福寺に移ったのは、昭和52年5月のことで、それまでは上大崎の常光寺にあった。

「福澤諭吉先生永眠之地記念碑」

 福澤先生が歿したのは、20世紀を迎えて間もない、明治34(1901)年の2月3日であった。そして、2月8日、先生の柩は、幼稚舎生から大学部までの塾生、塾員、会葬者等からなる1万5千人の行列とともに、三田山上から表門(後のいわゆる幻の門)より三田通りに出て、赤羽橋、一の橋を経て、菩提寺の善福寺に運ばれた。そして、葬儀を終えると、柩と葬送の行列は更に三光坂、白金台町を経て、白金大崎村の本願寺の墓地まで進み、ここに埋葬されたのであった。
 元々この地は、正福寺という芝増上寺の末寺があったが、廃寺となってその跡を隣の本願寺が管理していた。ところが、明治42年に、高輪泉岳寺の近くにあった常光寺が、正福寺の寺跡を譲り受けてこの場所に移って来たために、先生の墓所も常光寺の境内の中に入ったのである。
 現在、この墓所の跡には義塾と縁の深い建築家谷口吉郎博士の設計による記念碑が建っている。正面には、「福澤諭吉先生永眠之地」と彫られ、左右に小さく「天保5年12月12日生」「明治34年2月3日死」と添えられた黒い石板がはめ込まれ ている。その右側には「明治34年2月福澤諭吉先生永眠のとき此處に埋葬せらる。先生の生前自ら選定し置かれし墓地なり。昭和52年5月福澤家の意向により同家の菩提寺麻布山善福寺に改葬せらる。よって最初の瑩域を記念するため之を建 つ。昭和53年5月14日」と記されており、裏面には、「この記念碑は福澤先生夫妻の柩の上に埋められてあった銘板をモチーフとして谷口吉郎君により設計されたものである」と刻まれている。
 福澤家では、常光寺の敷地の一部になったことで宗旨の相違等による不都合や寺との行き違いが生じていたことから、菩提寺の善福寺に移転することになったのであった。しかし、先生が埋葬されていた地であるし、義塾社中の人たちにとっては、塾生時代から、長年御命日に墓参し続けてきた思い出深いところである。そこで、当時の塾長久野洋の発案を後任の石川忠雄が引き継ぎ、寺の協力も得て慶應義塾として記念碑を建てたのである。

福澤諭吉先生永眠之地記念碑
 
福澤諭吉先生永眠之地記念碑

 

「幼稚舎創立者和田義郎碑」

 福澤先生は、朝の散歩を日課にしていたが、その時に、周囲が閑静で眺望が良いのを気に入ってこの地を自分の墓地として選んでいたという。当時は、隣の本願寺が管理しているというものの、廃寺の跡の空き地であったし、周囲も建てこんでいなかったから、坂の上のこの地からは遥か遠くまで見渡すことができたに違いない。
 しかし、先生がこの地を選んだのには、幼稚舎の創立者、和田義郎の存在があったのではないか。福澤研究の第一人者であった富田正文も、「先生の足をこの方向へ導いたもう一つの原因は、和田義郎の墓がここにできたからではなかったかと、私はひそかに思っている。・・・そこへしばしば先生の散歩の足が向いて、そこで自分もこの場所に墓地を作っておこうという気になったのではなかろうかと、私は推察している」(本誌772号)と述べている。
 実際、小泉信三も、子供時代に福澤先生の朝の散歩で、この地を訪ねた記憶がある。先生は、長女の里の夫の中村貞吉が亡くなってから、遺された孫を不憫に思い、同じく、早くに亡くなった愛弟子小泉信吉(のぶきち)の子、信三少年とともに遊び相手になることがあった。「お供は壮吉と書生一人と私とだけであった。・・・豊岡町から三の橋の橋際を左に折れて、そこにある竜源寺という寺に一寸立ち寄り、それからどの道をどう歩いたか、憶えないが、白金に出て、今、先生の墓のある大崎の常光寺(当時は本願寺)に行き、そこで小さな中村貞吉の墓にお辞儀した。それからそれより稍々大きい別の墓に詣り『これは和田(義郎)さんのお墓だ』と吾々にいってきかせた」と回想している。
 和田義郎(1840〜1892)は、紀州和歌山の出身で、草創期の義塾に学び、明治7年、福澤の意を受けて、義塾の幼年生のために、和田塾、今日の幼稚舎を開いた。学問のみでなく、柔術の達人でもあり、福澤先生が理想とする「先ず獣身を成して後に人心を養う」の教育を実現した人であった。また、当時大半の生徒が寄宿している中で、夫人とともに、生活の全てに至るまで細やかに愛情を注いだ人でもある。
 先生が、如何に和田の人柄を大切にし、その死を嘆いたかは、先生が「親友福澤諭吉、涙を揮て之を記す」として認めた墓誌に見ることができる。その中に次の一節がある。

 「君の天賦温良剛毅にして争を好まず、純然たる日本武家風の礼儀を存す。在舎の学生曾(かつ)て叱咤(しった)の声を聞かずして能よく訓を守り、之を慕うこと父母の如くにして、休業の日尚且(なおかつ)家に帰るを悦ばざる者あるに至る。」

 かつては福澤の墓碑と向かい合って立っていた和田の墓碑も、平成14年に、青山墓地に移設された。しかし、右の先生の墓誌が刻まれた碑は、記念碑として整えなおされ、常光時に「幼稚舎創立者 和田義郎碑」として建っている。

和田義郎の記念碑
 
和田義郎の記念碑

 

 

 

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──空気はよし風俗は朴素なり


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──能代・弘前・木造


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第78回
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