慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第38回    
  避暑地軽井沢とA. C. ショー
 
 
 
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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 この夏を、軽井沢で過ごす読者も多いのではないか。軽井沢が避暑地となるきっかけを作ったのは、慶應義塾で教鞭を執ったA. C. ショーというカナダ人宣教師である。

明治以前の軽井沢

 江戸時代には、五街道のひとつ中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた。軽井沢付近には、軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた。この三宿をまとめて「浅間三宿」と呼び、浅間山を望む景勝地として有名であった。

避暑地軽井沢

 明治時代に入ると、街道を往来する旅人も少なくなり、いったんは宿場町としての機能を失って衰退の一途を辿った。しかし、明治十四(一八八一)年に初版が出版された英文の旅行本、アーネスト・サトウ著『明治日本旅行案内』が同十七年に改版された際、軽井沢の爽快な気候、新道開通による交通手段の改善、良好な宿泊事情が具体的に紹介されたことにより、欧米人は軽井沢の存在を知ることになる。
 同二十一年にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw)らが別荘を設けて、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。同年には信越本線の長野方面が開通して軽井沢駅が設けられ、同二十六年には碓氷峠を越える部分のアプト式軌道も開通して東京と直結。また訪れる人を受け入れるホテルもでき、大正期には、西武などの資本の参入で別荘地の分譲が盛んになった。こうして、宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、「山の軽井沢、湖の野尻湖(長野県)、海の高山(宮城県)」として、日本三大外国人避暑地の一つに数えられたのである。

 

A. C. ショー
A. C. ショー

A. C. ショーと福澤先生

 ショーは一八四六年、カナダ(当時の英領カナダ)のトロント市に生まれた。ショー家は、スコットランドに長く続いた名貴族で、後にカナダに移住。祖先はトロント市の開発の先駆者として活躍し、父は当時トロント市の連隊長であった。同市内にはいまでも「ショー通り」の名前が残されている。ショーはトロント大学に進み、在学中に聖公会聖職を志した。そして一八六九年に執事に、一八七〇年に司祭となる。同年、イギリスに渡り、ロンドンの教会に勤務するようになった。
 当時、英国聖公会は、近代化の進む日本にキリスト教を広めたいと考えていた。その宣教師にショーが志願し、明治六(一八七三)年、ロンドンから大西洋、アメリカ大陸横断を経て、イギリス聖公会福音宣布協会(U.S.P.G.)派遣の宣教師として横浜に到着し、築地にあった居留地、今の聖路加病院のあたりにあった田中屋という外人宿に旅装を解いた。
 しかし、日本人への宣教伝道をしたくとも、日本人との接触を十分に持つことができなかった。イギリスの公使館から、日本人を相手に宣教するならば日本人の町の中に溶け込まなくてはいけないという助言を受け、三田の慶應義塾と通りをはさんですぐ南西隣にあった大松寺(だいしょうじ)に寄宿をした。それがきっかけで福澤先生の知遇を得て、ショーは先生の子女のための家庭教師となる。併せて、慶應義塾の「倫理学教授」の肩書きも手に入れ、義塾の構内にあった先生宅の隣に建てられた洋館に居住し、英人カテルと結婚した。先生は、「我輩の家の隣には我輩の深切なる先生ミストルショーの家あり。此度び両家の間に橋を架して、我輩の家よりミストルショーの家の二階に行く可し。故に我輩は此橋を友の橋と名るなり。」(『福澤諭吉全集』第二〇巻一三八頁)と語るまで交遊を深めた。

 ショーは本国に送った手紙の中で、「福澤は日本の代表的教育者で、彼と結びつきを持つことは他では得られない立場を私に与えてくれる。私は彼の造った学校で倫理、実際は聖書を青年たちに教えている。」と報告している。明治九年、ショーは三田に最初の宣教拠点として聖保羅(パウロ)会堂を設置。後に移転して、現在の港区芝公園三丁目の地に聖アンデレ教会を創設し、その活動を発展させた。


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