慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第32回    
  スポーツの父 平沼亮三
 
 
 
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

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 慶應の先輩、後輩はもちろん、スポーツ愛好者には性別年齢を問わず施設を開放し、食事、入浴、宿泊の世話をした。特に食事は、「スポーツライス」という平沼家名物があり、それは実はカツカレーであった。元巨人軍の千葉茂がカツカレーの元祖という話があるが、年代から考えると平沼家のスポーツライスが元祖と言える。このような大変ユニークな邸宅がどこにあったかと探していると、昭和四年測図、昭和二十二年製版の横浜三千分の一地形図「三ッ澤」に「平沼邸」の文字を発見した。神奈川区沢渡五五番地で、横浜翠嵐高校の東側に当たる地であった。


 亮三は、実業界においてキリンビール、東京會舘、帝劇、玉川電気鉄道、東京ガス、東京生命、スタンダードガソリンはじめ実に多くの役員になっているが、資本参加だけの重役であり、自ら独立して会社を興し、事業を切り盛りしたわけではなかった。彼の人に愛される性格によって成せたことであろう。
 政界では、明治四十一年に神奈川県会議員になったのを皮切りに、明治四十三年に横浜市議会議員、大正十三年に衆議院議員、昭和七年に貴族院議員となるが、最も亮三の名を上げたのは、晩年の昭和二十六年から務めた横浜市長職であろう。
 空襲で大きな被害を受けた横浜を再び活気ある町に立ち直らせることと、進駐軍によって占領されていた施設の返還に力を尽くした。

 

 亮三が大日本体育協会会長であった昭和二十一年に自らが始めた国民体育大会を、昭和三十年に神奈川県で開催する運びになった。三ッ沢競技場で開催された時のことである。七十六歳の亮三市長は、全くのサプライズでやわらにモーニングを脱ぎ、白鉢巻を締めてランニング姿になった。聖火リレーの最終走者として、トラック半周、続いて五十六段の階段を駆け登って、聖火台に火を点じた。昭和天皇は、その時の様子を翌年の新年歌会に「松の火を かざして走る 老人(おいびと)の ををしき姿 見まもりにけり」と発表された。この歌を賜ったとき、亮三は人目もはばからずに、ボロボロと大粒の涙を流した。また、同年にスポーツ関係としては初の文化勲章を受章している。

 昭和三十七年に三ッ沢公園に聖火ランナー姿の亮三の像が建てられた。正面に秩父宮妃殿下の御染筆により「平沼さんの像」と刻まれ、碑文は小泉先生が認め、「今此處ニ聖火ヲ掲ゲテ走ルモノハ単ニ一個ノスポーツマンデナク眞ニ有道高徳ノ人姿トイウベキデアロウ」と結んでいる。また、秩父宮妃殿下の筆による陛下の句碑が、像の脇の茂みの中に建てられている。

 

日吉の平沼氏胸像
日吉の平沼氏胸像

 昭和三十四年四月十三日が二期目の市長任期満了であったが、その時を待たず、二月十三日享年七十九で天寿を全うした。二十五日には平和球場で市民葬が行われ五万人が会葬した。受けるより与えることを幸いとした亮三の人柄を表した弔辞を、友人代表として小泉先生が述べている。墓所は西戸部三丁目の願成寺にある。門を潜ると右側に平沼家の墓所がある。正面に父九兵衛・母千代子夫妻の大きな墓石があり、その右側にやや小ぶりの亮三・婦美夫妻の墓がある。


 昭和四十五年には、「市民の誰もがいつでもスポーツのできる体育館」を提唱していた亮三を記念して、三ツ沢公園に横浜市平沼記念体育館が建設された。体育館の記念棟二、三階は、亮三の写真、文化勲章はじめゆかりの記念品を展示した資料室になっている。昭和五十四年には野球殿堂入りも果たしている。

 

平沼亮三資料室の様子
平沼亮三資料室の様子

 さて、日吉競技場の胸像だが、昭和三十年潮田塾長が発起人となって喜寿の祝賀会が開かれた際、全国の競技団体から贈られたものである。芸術院会員吉田三郎作の胸像が除幕されると、亮三ははにかみを見せて笑い、その横に並び胸像と同じポーズをとって、観衆にウインクしておどけて見せた。そして、この胸像は塾の体育会に寄贈され、日吉競技場に置かれることになった。実は、石坂浩二さんは亮三の外孫に当たる。祖父と向かい合いながら、式典の司会を務めるとは不思議な縁えにしである。石坂さんが祖父の家を訪ねると、でんぐり返しをさせられ、相撲やキャッチボールの相手をしてくれたという。そして普通部の労作展には、必ず足を運んでくれたという思い出が残っているという話であった。

 昭和三十三年に横浜開港百年祭で、関東大震災、戦災の苦難を乗り越えて、亮三市長は「横浜の第一世紀に終わりを告げ、横浜の第二世紀を迎えるスタートの年」と述べたが、その横浜も今年は開港百五十周年を迎える。最後に「幼稚舎同窓会報」の題字は、今も平沼亮三のものを使用している。

 

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