慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

慶應義塾の風景
三田評論表紙
2016年5月号表紙
  No.1200(2016年5月号)
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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第29回    
  適塾と緒方洪庵
 
 
 
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)  
     
 

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 安政2(1855)年2月、長崎で蘭学を修めていた福澤先生は、先生のオランダ語の上達を妬んだ奥平壱岐の奸計によって、長崎を追い出される。そこで先生は中津には戻らず、更なる蘭学修行を求めて江戸を目指す。その途上、丁度、大阪の中津藩蔵屋敷勤務になっていた兄三之助を訪ねると、三之助は「大阪でも先生はありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶがよい」と助言をし、同年3月9日緒方洪庵が主宰する適塾に入門することになった。

 緒方洪庵は、文化7(1810)年、備中足守藩の下士の三男として足守植之町で生まれた。現在、岡山県岡山市足守の県指定史跡洪庵生誕地跡には、「洪庵緒方先生碑」「産湯の井」、そして生誕180周年記念として平成2年に建てられた「緒方洪庵先生之像」がある。昭和2年に建てられた「洪庵緒方先生碑」の下には、洪庵の臍(へそ)の緒、元服の遺髪が埋められているという。
 文政8(1825)年、父の大阪蔵屋敷転勤に伴って上阪。体が弱く、武士に適さないと感じた洪庵は、万人を救済する道としての医を志し、蘭方医中天游の思々齋塾の門に入った。さらに江戸で坪井信道、宇田川玄真に師事、長崎留学を経た後、天保9(1838)年春、大阪の瓦町(現瓦町4丁目)で医業を開業すると共に、蘭学塾「適塾」を開く。

 開業の2年後、天保11年の大阪の医者の番付で、早くも前頭4枚目になっているように、彼の名声は広がり、塾生も多数となったため、弘化2(1845)年12月、過書(かしょ)町(現中央区北浜3丁目)の商家を購入し、移転した。この時の建物が現存し、「旧緒方洪庵住宅」として重要文化財に指定され、大阪大学が管理している。

 過書とは、公認の通行証のことで、淀川水系において特権的な営業権を認められた船のことを過書船と言った。つまり過書船の着く浜が過書町の名の由来となっている。過書町の適塾脇、現愛珠幼稚園の所にはオランダ貿易に必要であった銅を管理する銅座があり、東の道修町には中国やオランダから輸入される薬を取り扱う薬種商が集まっていた。続く北浜には金相場会所や長崎俵物会所もあって、米問屋、両替商、米仲買も多く、大阪経済の中心地の体をなしていた。現在、適塾周辺は、製薬会社が多いことを特徴としたオフィス街になっており、適塾はビルに囲まれて大阪で現存する最も古い建物としてその姿を今に伝えている。

 

大阪適塾

 適塾は、昭和17年に国に寄贈され、昭和51年に5年を掛けた解体修理を行い、できる限り当初の状態に復元された。そして、同55年5月に一般公開が開始された。この適塾の建物は、銅座、長崎俵物会所、淀屋橋などを焼き払った寛政4(1792)年の大火後に、商家とし
て建てられたと推定されており、間口約12メートル、奥行約39メートルの敷地に建ち、通り側の店部分は2階建て、奥の住居部分は平屋建ての典型的な商家の造りである。

適塾正面
適塾正面

 正面の入り口をくぐると、土間があり、その左手に式台のある玄関の間がある。その奥に、現在1つは受付になっている6畳の間が2つある。この2間は、教室として使用されていた。適塾では、まず文法の本を2冊学び、その後、原書の会読に参加する。塾生は学力によって8、9級に分かれており、級別に会読が月6回行われていた。
 会読ということは、生徒が10人なら10人、15人なら15人に、会頭がひとりあって、その会読をするのを聞いていて、出来不出来によって白玉をつけたり黒玉をつけたりするという趣向(『自伝』)
 会頭は、塾長、塾監、一等生が行い、会読での成績優秀者が進級する仕組みであった。

  教室の裏には中庭があり、その奥は、家族部屋、客座敷、書斎などがある洪庵の私宅部分になっていた。『自伝』に、洪庵夫人が「福澤さん福澤さん」と呼ぶのを下女が呼んでいると勘違いし、真っ裸で階子段(はしごだん)を飛び降りていった福澤先生の大失策が記されているが、どの階段なのかと想像すると実に楽しい。
 2階の通り側には、32畳の塾生大部屋と10畳の小部屋がある(大正4年道路拡張のため、正面が1.3メートルに軒切りされ、現在はそれぞれ28畳、8畳になっている)。

現在の適塾平面図
現在の適塾平面図
画像をクリックすると拡大図を見ることができます。

 塾生大部屋は、

塾中畳一枚を一席とし、其内に机・夜具其他の諸道具を置き、此に起臥することにて頗(すこぶる)窮屈なり。
就中(なかんずく)或は往来筋となり、又は壁に面したる席に居れば、夜間人に踏み起こされ、昼間燭を点(とも)して読書するなどの困難あり。然るに毎月末、席換へとて輪講の席順に従ひ、上位の者より好み好みに席を取ることゆえ、1点にても勝を占めたる者は次の人を追退けて其席を占むることを得るなり(長与専斎著『松香私志』)。

 ということで、息苦しくなるほどの混雑であっただろう。部屋の中央には、多数の刀傷のついた柱があるが、新しい時代を模索する若者達のエネルギーの痕跡であろうか。

塾生大部屋
塾生大部屋

 小川清介自伝『老いのくり言』に、40畳の大部屋、自然窟という4級以下の塾生の10畳の部屋、3級以上の塾生の清所という10畳の部屋があったと記してある。清所は1人が使用できる畳数が多く清潔な方であったが、他は拭き掃除が朔日のみで、不潔極まりなかったという。しかし、現在は大部屋の隣に、かつて10畳であった小部屋が1つあるだけである。
 現在小部屋には、適塾の入門帳にあたる「姓名録」(複製)が展示されており、先生の署名のあるページが開かれている。そこには「同年(安政2年)3月9日入門 中津藩 福澤諭吉」と記されているが、これは張り紙に書かれており、その下には「同年3月9日入門 豊前中津 中村術平倅 中村諭吉」と書かれている。安政3年9月の兄の死によって、叔父中村家の養子になっていた先生が、福澤家を相続することになったために起こった事柄である。

 

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これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
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第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
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2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
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2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
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2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
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──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

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2014年7月号掲載

第91回
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2014年6月号掲載

第90回
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──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


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第88回
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2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

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越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

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