藤山雷太
藤山雷太(らいた)は、文久三年八月一日(一八六三年九月十三日)、肥前国松浦郡二里村大里(現佐賀県伊万里市)の庄屋を務めていた、佐賀藩士藤山覚右衛門の四男として生まれた。雷太誕生の日が大里の神之原(かみのはら)八幡宮の祭日で村芝居が掛かっており、源氏再興の児が生まれるという筋であった。加えて藤山家の庭の栴檀(せんだん)の木に落雷があったので、雷太と名づけられたといわれる。神之原八幡宮境内に、長崎の平和祈念像の作者である北村西望作の雷太の銅像がある。

藤山雷太
佐賀藩校「弘道館」に学び、明治十一(一八七八)年に長崎師範学校に入学。同校を明治十三年に卒業と同時に助教諭となり三年間講義を行う。同十七年に上京して慶應義塾に学び、同二十年四月に慶應義塾正科を卒業した。
佐賀で県会議員を務め、議長まで上り詰めた後実業界に転じ、明治二十五年福澤先生の紹介で三井銀行に入行し、抵当係長として実績を挙げ、中上川彦次郎に見込まれて芝浦製作所(後の東芝)所長となる。更に王子製紙の乗っ取りに成功、また東京市街電鉄、日本火災、帝国劇場などの創立に参加した。同四十二年に当時破産寸前であった大日本製糖の社長に就任、台湾における粗糖生産の拡大などによって同社の経営再建と大手製糖企業としての発展を実現し、一躍財界に重きをなした。その後、日糖を中心に関連企業を派生させ、藤山コンツェルンと呼ばれる企業集団を築いた。
義塾評議員を明治三十八年から終身務め、日本商工会議所初代会頭や貴族院勅選議員なども歴任したが、昭和十三(一九三八)年、七十五歳で逝去し、多磨霊園に葬られた。十一区一種二側二番の墓所には雷太の胸像があり、六区公園前には藤山雷太記念壁碑が建っている
藤山愛一郎
愛一郎は、明治三十年五月に雷太の長男として生まれた。幼稚舎入学後、当時の官立崇拝の強い風潮の中、府立一中を受験するも失敗し、普通部に進学した。慶應義塾大学部政治科に進むが大正七(一九一八)年に病気療養のため中退し、父が築いた藤山コンツェルンの後継者として大日本製糖社長、日東化学工業社長、日本商工会議所会頭、海軍省顧問などを歴任した。昭和十四年義塾へ百万円を寄付、これを基金として慶應義塾学事振興基金が設定された。
第二次大戦後、公職追放を経験するが、日本商工会議所会長に再任され、また東京都共同募金会会長、初代日本航空会長、日本テレビ取締役など二百を超える経済界の要職に就いた。第一次・第二次岸信介内閣で、岸に請われて初の民間人閣僚として外相を務め、日米安全保障条約改定の折衝にあたった。これを機に政界に進出し衆議院議員となり、第二次池田勇人内閣の経済企画庁長官、自民党総務会長を歴任。首相への夢を抱き、三回にわたって自由民主党総裁選に挑戦するも敗北し、巨額の資産を派閥維持の費用など権力闘争に投じた結果、藤山コンツェルンは解体されてしまった。昭和五十年に政界を引退し、同六十年、八十七歳で逝去した。
邸宅・茶室・別荘
藤山家の自宅は、東京市芝区白金今里町十四番地、現在、港区白金台のシェラトン都ホテル東京が建つ場所にあった。邸宅は、「関西建築界の父」と呼ばれ当時京都帝国大学建築学科教授だった武田五一と、その教え子で国会議事堂の設計に携わった吉武東里の設計で、昭和七年竣工のイギリス・チューダー様式の洋館と日本館が並ぶ大邸宅であった。一九六〇年代の愛一郎の自民党総裁選出馬や派閥維持の資金調達を目的に敷地と共に売却された。ホテル建設のため洋館は取り壊されたが、昭和五十三年に日本館部分の平屋の書院と三層の楼閣が、これを施工した名古屋の棟梁で高野山金剛峯寺金堂の再建にも携わった魚津弘吉の紹介で、名古屋市昭和区にある曹洞宗の龍興寺に移築され、愛知県の指定文化財となっている。内部は総欅造り、吊り天井などもある豪華なもの。建物は南西部に観月台を張り出し、周囲に縁側を廻しているところなど、京都の醍醐寺三宝院書院を模しているといわれる。西には三層の楼閣があり、宝庫として設計されたため、一、二層は鉄筋コンクリート造で耐火構造となっている。都ホテルのバーには、洋館のインテリアが一部移設されている。また、敷地内の約一八〇〇坪の日本庭園は、旧藤山邸の面影を今に残している。
邸内にあった茶室は、戦時中の昭和十九年に東条内閣打倒の密議が岡田啓介、米内光政、末次信正らを集めて行われたとの逸話が残る。同五十八年に大田区に寄贈され、区内の池上梅園に「聴雨庵」と称して移築されている。
箱根強羅の別荘は、木造平屋建て、茅葺の日本家屋と洋館仕立ての食堂、応接室棟からなり、建築面積四三一平方メートル。昭和十九年に宗教法人世界救世教の創始者である岡田茂吉が買い取り、国登録有形文化財神山荘として現存する。
|