巻頭随筆2019年5月
ヒヤリハットを重視する文化を学校に
渡邉正樹
最近、海外で航空機事故が相次いで発生していますが、一度に数多くの犠牲者を生む航空機事故は、決して発生させてはいけない重大事故です。そのため事故発生時の原因究明はもちろん、航空機同士の異常接近のような事故が発生しそうになった場合にも、極めて危険な事態(インシデント)として徹底的に調査が行われます。また医療現場では、様々な医療事故のヒヤリハットについて日常的に振り返り、事故発生を未然に防ぐ取組が行われています。なぜこのような話を取り上げるのかと言えば、学校現場にはこのようにヒヤリハットを重視して、事故発生を防ごうとする文化が非常に希薄であると筆者が常々感じているためです。
記憶に新しい平成二十九年三月に発生した那須雪崩事故では、生徒七名、教員一名の命が失われました。事故発生の翌月から事故検証委員会が立ち上がり、同年十月には検証報告書が公表されました。報告書では様々な問題点が挙がっていますが、その中に七年前にも雪崩事故が発生していたにもかかわらず、その事実は県高体連や県教育委員会へ報告されず、関係者間で情報が共有されなかったことが指摘されています。この時は大きな被害は出ませんでしたが、典型的なヒヤリハット事例と言えるものです。もしその経験がきちんと伝達されていれば、効果的な対策が講じられていたかもしれません。
また平成二十九年十二月には群馬県の県立高校で、陸上部の部員が投げたハンマーが、同じグラウンドで練習していたサッカー部の生徒を直撃し、その後亡くなるという事故が発生しました。この事故においても検証委員会が設置され、事故の原因の分析が行われました。関係者への聴き取りにより、過去にも陸上部の投てき練習で投げられたハンマーがサッカーゴールに当たるなどの危険な場面があったのですが、そのことは管理職に伝わっていなかったことが明らかになりました。つまりいつ事故が発生してもおかしくない状況が続いていたのにも関わらず、何ら対策が行われなかったわけです。
学校に限らないことですが、「危なかったけどけが人が出なくてよかった」で終わってしまい、「今回は人的被害がなかったが、次には起きないように対策を講じよう」という発想になかなかつながりません。しかし全く予測ができない事故は存在せず、ほぼすべての事故は過去に発生しているか、あるいはヒヤリハット事例が存在します。にもかかわらず、それが共有されることも、その後に活かされることもないまま、重大事故が繰り返し発生しています。
学校では経験の長い教員はその危険性に気づくはずですが、筆者は経験が事故防止につながることに懐疑的です。一般に危険回避を阻害する要因として認知的バイアスがありますが、その中にはベテランバイアスが挙げられます。ベテランバイアスは、豊富な経験が逆に合理的な判断を妨げるというものです。「これまで被害がなかったから今回も大丈夫」は、特に教員など指導者が陥りやすいことです。たとえ経験が豊富であっても、常に判断が正しいとは限りません。自分の経験を過信せず、被害の有無に限らず危険な状況を見落とすことなく、ヒヤリハット経験を活かすことのできる学校文化を醸成していきたいものです。
執筆者紹介:渡邉 正樹(わたなべ まさき)
東京学芸大学教職大学院教授。日本安全教育学会理事長。専門は安全教育学、健康教育学、学校危機管理。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。著書に、『学校安全と危機管理 改訂版』(大修館書店、二〇一三年)、『緊急確認! 学校危機 対策・頻発36事案』(教育開発研究所、二〇一四年)など。
編集後記2019年5月
- 小さな子どもと話していると、ふと、その表情にこちらの意識が引き寄せられてしまうことがあります。彼ら/彼女らは一生懸命に思いを伝えようとするのですが、言葉そのものが有する情報量は限られているようで、何度も何度も語りなおそうとします。そして何より、身振り手振りを交えたその一生懸命さに、そして彼らの表情そのものに、聞いているこちらは引き込まれてしまうのでしょう。
- そんなことを鮮烈に経験する機会がありました。我が家の娘の卒園式の最中のことです。卒園児たちがお別れの唄を歌っていたのですが、後半にさしかかったところで突然、彼らが向かい合わせになるようにターンして歌い始めました。するとそこから子どもたちの多くが大粒の涙をこぼしながら歌い始めたのです。それまで淡々と歌っていたように思われた子どもたちが泣いたことで、その場は感極まった雰囲気に包まれました。しかし、ここで起こった現象は何なのかということが、教育学者である私には気になってしまうのです。
- おそらく、ここでは二重の現象が起こっていたのではないでしょうか。ひとつは、人間にとってコミュニケーションというものが言語によって取り交わされるだけでなく、表情やその場の状況によってむしろ多くのメッセージが伝達されているということです。特に小さな子どもたちは、表情やしぐさを通してさまざまな意味や感情を感受しているのではないでしょうか。向かい合った友人の表情からお互いの気持ちを彼らは感受したように思われます。彼らは大人に比して劣った表現能力を有しているというよりも、別様に、あるいは多様にメッセージを感受・発信する能力を有していると考えるべきかもしれません。
- もうひとつは、共感に関わることです。これは驚くべきことだったのですが、ビデオ機器を通して子どもたちの泣く姿を目の当たりにした際に、小さなモニターを覗いていた私自身にも涙が溢れてきました。成長の中で生じるこうした儀礼・儀式は喜ばしいものであって何ら涙を誘うものではないというふうに〝ドライ〟に認識していたはずが、カメラ越しに見た映像によって涙を流すというのは、自分の身に生じたことながら少なからぬ驚きです。それは感動して泣くというのとは少し異なって、子どもたちの感情が表情を通して感じられてしまうという経験であったように思われます。
私たちの身体は、時に共感の回路を他者たちとの間で繋ぐものです。身体を通して理解するというこの側面もまた、見落とされがちであるにもかかわらず、コミュニケーションにとって本質的な意義を有しているのだということを図らずも感じてしまう経験でした。 - このことは本号の特集2「今の子どもの対人関係」でも、作動しているメカニズムであるように感じます。また、特集1においても、現象として浮上してくることは多くはないと思われますが、言外のメッセージや共感の回路が重要性を持つ場面は少なくないでしょう。
(藤田雄飛)