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連載

The Cambrige Gazette


グローバル時代における知的武者修行を目指す若人に贈る
栗原航海(後悔)日誌@Harvard

『ケンブリッジ・ガゼット:Lessons Learned』

第10号(2007年3月)
 

 

■ 目次 ■

 

3. 日欧関係 憧れと無関心を超えて

 こうして今月のテーマは「日欧関係 憧れと無関心を超えて」です。先取りして結論を申し上げますと次の通りです。グローバリゼーションが深化するなか、太平洋戦争後、地政学的には遠かった欧州との関係を見直す時期が来た。すなわち、中国の台頭、ロシアの復活を巡って問題化した国際間の制度調整、環境問題における米欧間の主導権争い等、欧州諸国との協調・協力体制を再編・強化する時期が到来したのである。しかし欧州は多様性のなかに統一性を持ち、国境を超えた知的対話と同時に血生臭い戦争が間断無く繰り返された地域であり、双方向の知的対話が希薄であると同時に激しい戦いも経験しなかった東洋とは対照的な形の長い歴史を持つ国々の集合体である。従って我々はそのことを十分理解した上で、欧州との関係を再考すべきである。また、米国やアジア諸国に比べると地理的に離れているが故に、文化的な憧れや片思いに近い感情を抱く日本人と、極東に関心を持つ極く少数の人々を除き、日本人に無関心な圧倒的多数の欧州人とが「すれ違い」の状況になっていることも否めない。21世紀初頭において、こうした我々の憧れと彼等の無関心という「すれ違い」を超えて、我々は互いの国益を見据えて政治経済的な協調・協力関係を摸索し、共通する価値観の確認と、異なる価値観の存在を認め合い、尊敬し合う精神を築きあげることが重要である。このためにも、我々はこれまで以上に意識的に欧州情勢を学ぶと共に双方向の知的対話を行わなくてはならない。以上が今月の話題です。

欧州史: 「知」と「血」が交錯した記録


 小誌新年号「アジア、多様性と統一性との狭間で」の中で、アジアは欧州に比して「志」が高く才能のある人々が相互に影響を与え、友好的に競い合う「場・方法」が極めて限られてきたと申し上げました。その時に3月号でこれについて詳述すると申し上げました。慧眼な皆様に改めてご説明する必要は無いと思いますが、ここで、それを概観してみたいと思います。すなわち、欧州は歴史的にみて、@古代においてはギリシア・ローマ文明、A中世においてはキリスト教文明、B近世においてはルネサンス文明と宗教改革、Cウェストファリア条約以降の近代においては主権国家の形成と資本主義の発達と、現代欧州政治の国境を超えた形で「志」が高く才能の有る「ヒト」が相互に影響を与え、また競い合う「場」が提供され、「方法」が検討されてきました。ここで私が念頭にしている「場」とは、例えば大学やアカデミーといった学術組織であり、「手段」とは、例えばラテン語といった共通言語、16世紀のクリストフ・プランタンを代表とする印刷業者、そしてロンドン王立協会の『哲学会報(Philosophical Transactions)』に代表される学術雑誌を指しています。

 紙面の制約と私の能力の限界から詳述することは不可能ですが、具体例を幾つか挙げてみます。@古代において、アレキサンダー大王やシーザー等による広大な地域による支配地の拡大と共にギリシア・ローマの文化が空間的に広がりました。A中世において、イスラム諸国やビザンチン帝国に圧倒された時期もありましたが、キリスト教が基軸として働き、教皇権力の強化や欧州からのイスラム勢力の駆逐(Reconquista)等を経て欧州としての一体感が強化されました。この時期、欧州に大学が次々と設立されます。最古の大学であるボローニャ大学(1088年創立)をはじめ、パリ大学やオックスフォード大学が設立されたのも中世でした。B近世において、ペトラルカ、エラスムス、モンテーニュといったユマニスト達がラテン語を媒体として国境を超えて知的対話を行いました。また、ルネサンス期の紳士淑女の指南書であるカスティリオーネの『宮廷人(Il cortegiano)』は、西仏羅英独、更にはポーランド語にまで訳されて全欧州に広まりました。C近代に入りますと直接的で双方向の知的対話は一層活発になります。実際に直接的な知的対話が有ったかどうかは別として、大天才同士が極めて近い場所で生活していたという面白い史実があります。小誌創刊号で触れたノルウェーの天才数学者アーベルは、1818年、ベルリン留学中、大哲学者ヘーゲルと同じ下宿で過ごしました。当時16歳のアーベルは下宿で相当はしゃいだらしく、ヘーゲル先生を怒らせたようです。大哲学者フィヒテの死後、4年間空席となっていたベルリン大学哲学講座の教授に就任して「さぁ、これから」とやる気に満ちた48歳のヘーゲル先生は一体どんな輩が騒いでいるのかと思ったことでしょう。周囲の人が(間違いですが)アーベル少年を「デンマーク人ですよ」と言ったところ、ヘーゲル先生は、「デンマーク人じゃない。粗野なロシア人の輩に決まっている(„Nicht Dänen, es sind russische Bären.“)」と先生らしくないお言葉を吐いたという逸話が残っており、私はそれを知った時思わず吹き出すと共に、欧州に広がる直接的な知的対話の可能性に感銘を受けた次第です。

 小誌昨年9月号で、私は、ゲーテ、ヴォルテール、シェイクスピアをまとめて、「ゲヴォシェイク(GoeVoShake)」と呼んで楽しんでいることを申し上げました。シェイクスピア(1564〜1616)は近世の人ですから、近代に生きたヴォルテール(1694〜1778)やゲーテ(1749〜1832)との双方向の対話は不可能でしたが、この仏独両国の大天才が抱いた英国の文豪に対する思い入れには各々スタイルが違うものの凄いものがあります。ゲーテは、「魅力が無限のシェイクスピア(„Shakespeare und kein Ende“)」の中で、小誌昨年12月号でご紹介した福田恒存氏の主張と同様のことを述べています。すなわち、「シェイクスピアは生き生きした言葉によって効果をあげている。そして、その効果は朗読の際に最も良く発揮される。聴き手は演出の良し悪しによって気を散らされることがないからである。シェイクスピアの作品が自然な正しい発声で大げさにならないように朗読されるのを、目を閉じて聴くことほど高尚で純粋な楽しみはない(Durchs lebendige Wort wirkt Shakespeare, und dies lässt sich beim Vorlesen am besten überliefern; der Hörer wird nicht zerstreut, weder durch schickliche noch unschickliche Darstellung. Es gibt keinen höhern Genuss und keinen reinern, als sich mit geschlossnen Augen durch eine natürlich richtige Stimme ein Shakespearesches Stück nicht declamieren, sondern recitieren zu lassen.)」と、シェイクスピア文学のリズム感の素晴らしさを称えています。一方、ヴォルテールは、ゲーテとは反対にシェイクスピア劇の真髄に触れるならば、英語にこだわらず、翻訳される国の言葉で素晴らしさを語らなくてはならないと主張します。すなわち、『哲学書簡(Lettres philosophiques sur l’Angleterre>)』の中で、「私がこの翻訳で英語を一語一語直訳したとは思わないでほしい。文句をいちいち直訳して、原意を弱めてしまう逐語訳をする者に呪いあれ。こんな場合にこそ、文字は殺し、精神は活を入れる、ということができるのだ(Ne croyez pas que j’aie rendu ici l’anglais mot pour mot; malheur aux faiseurs de traductions
littérales, qui, traduisant chaque parole, énervent le sens! C’est bien la qu’on peut dire que la lettre tue, et que l’esprit vivifie.)」と、ヴォルテールはシェイクスピア文学に潜む精神の大切さを強調しております。いずれにせよ、英国文化が国境を超え、独仏の文化を揺り動かしたことは間違いないように思えます。

 この例を挙げた時、慧眼の皆様はすぐ疑問に持たれると思います。「そんな例なら、日本と中国との関係でも有るではないか」、と。確かにその通りです。徳川光圀が明朝末期の儒者である朱舜水の助言で中国の教えに従って小石川の作園の際に「後楽園」と名付けた例や、幕末の志士橋本左内が中国宋の武将岳飛を景慕して自ら景岳と号した例が有ることは皆様ご承知の通りです。しかしながら、紙面の制約と、厳密な定量的比較が分析上難しいが故に結論だけ申し上げて恐縮ですが、知的対話を「双方向」という視点で評価した時、欧州での知的対話は「双方向」であったのに対し、東洋では中国から日本を含む周辺諸国への「一方通行」型の知識の流れが支配的だったと私は理解しております。

 繰り返しになりますが、欧州における双方向の知的対話は地理的に広範で、歴史的にも長いものです。ご関心が有る方はご自身で、本学創立の1636年、ホッブスがガリレオに会いにイタリアを訪問したことや、デカルトが1649年、女王の招聘を受けてスウェーデン王国に移り、翌年その地で永眠したこと等を学んで頂きたいと思います。こうした歴史のなかで、私にとって最も印象深いのはナポレオン皇帝とゲーテとの直接対話です。ゲーテは、1808年10月2日に皇帝に接見したことを「ナポレオン会見記(„Unterredung mit Napoleon“)」として綴っています。しかもこの会見は決して「形式的」ではなく、皇帝と文豪との質の高い知的対話でありました。すなわち、「皇帝は、彼が徹底的に研究したという『ヴェルテル』に話を移した。まったく正鵠を射た評価をいくつか述べた後に、或る箇所を指摘し、『何故、貴方はあのように書いたのですか。あそこはどうも不自然ですね』と皇帝は尋ねた。皇帝は細かくこの点を説明したが、それは完全に非の打ち所の無いものであった(Er wandte sodann das Gespräch auf den Werther, den er durch und durch mochte studiert haben. Nach verschiedenen ganz richtigen Beobachtungen bezeichnete er eine gewisse Stelle und sagte: „warum habt ihr das getan? es ist nicht naturgemäß“ welches er weitläufig und vollkommen richtig auseinander setzte.)」、と。皆様、フランス皇帝がドイツの文豪に直接会い、彼の小説に関して自分の疑問点を率直に語り、それに対して文豪が納得するという光景を想像しただけで、西洋と東洋、彼我の大きな違いを感じるではありませんか。

 こうして私は欧州の地理的に広範な、また歴史的に長い双方向の知的対話に対して感銘を受けると共に尊敬の念を抱いております。そして、小誌前号で触れた王陽明の有名な言葉「※學(コウガク)は相い長ず」と同様の言葉である「教えることこそ、学ぶことである(homines, dum docent, discunt./While men teach, they learn.)」を残した古代ローマの偉人セネカの哲学を思い出しています。しかし、私達は欧州全域に広がった「知」の交わりと同時に互いに激しく「血」を流し合った歴史も忘れてはなりません。世の東西を問わず、人類の歴史は戦争に溢れています。ここでは詳細に議論することを避けますが、東アジアの覇権国中国の対外政策から、元寇を除き日本は天下泰平の鎌倉時代や徳川時代を享受し、日本独自の文化を醸成することができました。他方、欧州史を概観しますと、欧州連合(EU)成立まで、現代欧州が体験した2度の大戦をはじめ、長い歴史を通して域内の戦争に加え、内乱やイスラム世界との葛藤も加わり、戦争の合い間に短い平和が顔を覗かせているとの印象を私達に与えます。ナポレオン戦争後に到来した所謂「パックス・ブリタニカ(Pax Britannica)」ですら、欧州域内は比較的穏やかだったとは言え、ギリシア独立戦争、アヘン戦争、クリミア戦争、セポイの反乱等、決して「平和」だと言えた状態ではありませんでした。こうして、古代においてはアリストファネスの『女の平和(Λυσισρατα/Lysistrata)』、近世ではエラスムスの『平和の訴え(Querela pacis/The Complaint of Peace)』、近代においてはカントの『永遠平和のために(Zum Ewigen Frieden)』と、賢者達の願いとは裏腹に欧州の現実世界は極めて血生臭い記録の連続でした。

※はこのサイトでは表示されない文字です。PDFファイルには表示されています。

 

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著者プロフィール:栗原潤 (くりはら・じゅん)
ハーバード大学ケネディスクール[行政大学院]シニア・フェロー[上席研究員]
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