近代日本の中の交詢社  
 
       
         
   

第4回 同窓会から交詢社構想へ

明治12年9月2日、小幡篤次郎、中上川彦次郎、藤田茂吉、早矢仕有的など31名が神田美土代町三河屋に会した。交詢社発会当初からの機関誌であった『交詢雑誌』第1号の「創立略史」によれば、「知識を交換し、世務を諮詢する」という一社を設立することが決まったという。まず社則を作って同志を募集しようと、社則立案委員を選挙し、小幡篤次郎、小泉信吉、馬場辰猪、阿部泰蔵、矢野文雄の5名が決まった。2週間ほどで社則草案ができたとのことである。結社の構想はこの会合の少し前から同窓会案として始まっていた。福沢諭吉、小幡の書簡から経過を辿ることができる。(現代語で文意を要約した)

★同窓会案―明治12年8月

  • 7月31日付、阿部泰蔵、森下岩楠宛、差出人は福沢諭吉 「先日話した社中集会について下相談をしたいので、8月4日午後1時頃に我家に来てください」
  • 8月15日付、猪飼麻次郎宛、差出人は福沢諭吉 「この程、中より小幡ほか、社友4、5名の発起で旧友結社のことを相談しています」
  • 8月20日付、早矢仕有的宛、差出人は小幡篤次郎(阿部泰蔵、矢野文雄と連名) 「近頃の集会のときに命を受けた同窓会規則の草案ができましたのでご覧下さい」
  • 8月28日付、奥平毎次郎宛、差出人は福沢諭吉 「義塾の同社は小幡君の発意で同窓会を企画し、最近準備に入りました」

この同窓会案の内容を知ることのできる史料がある。「慶応義塾社中集会の趣意書」(『福沢諭吉全集』第19巻、401-402頁)である。途中から欠損しているために500字あまりと文章は短いものの、次のような要旨をつかむことができる。

慶応義塾の本色は学問上の教育であるが、その目的は「社会の風俗を改良して人生に大切なる居家処世の道を安からしめんとする」ことにある。それには同志の人が会し、互に和して飾り気のない情を通じることで世渡りを滑らかにし、憂いを少なくすることが一番である。悠々洋々お互いに楽しむ間に和らいだ気持ちになって、人生で最も大切な幸福を全うするべきである。それには、まず遊楽の門から入ることが我々の願うところである。

福沢が同窓会案をこのように考えていたことを記憶しておきたい。

★交詢社構想―明治12年9月

次の書簡は冒頭で述べた9月2日の会合の案内である。同窓会案の上に交詢社案が出てきたことを示している。

  • 8月29日付、早矢仕有的宛、差出人は小幡篤次郎 「近頃ご相談申し上げている集会につきまして、立案委員を選挙しますので、9月2日午後1時に神田美土代町1番地の三河屋という西洋料理店へご来会下さい」

この書簡とともに注目をひくのは、林金兵衛宛福沢書簡である。

 
  • 9月7日付、林金兵衛宛、差出人は福沢諭吉
    「当社(後の交詢社―筆者注)の約束も昨今相談中、未だ何とも申し上げ難く、いずれ にしても事情を取り極め次第ご報知申します」

同窓会案は規則草案まで進んでいたはずだが、この書簡では「未だ何とも申し上げ難く」と福沢は述べている。9月2日の会合直前に交詢社構想へと広がりをみせたようである。2つの構想の間でひきつがれたもの、新たな契機となったものは何であったのだろうか。

★林金兵衛への書簡―明治12年9月7日福沢書簡

林金兵衛への書簡の中で、福沢は交詢社をうかがわせる結社観を記している。林は現在の愛知県春日井市の豪農である。地租改正時、地価決定手続きをめぐって農民闘争がおきた。彼は農民代表として役人の官僚主義と激高する農民の間で尽力した。交渉は難航し、明治11年に地元43カ村代表として上京する。地租改正事務局に地価査定見直しを幾度も嘆願した際に福沢の助力を得た。春日井事件が決着したのは、この書簡の半年ほど前のことであった。

林は事件で疲弊した村の再建には倹約生活にしかずと『倹約示談』を作成(福沢立案の下)するのみならず、夏には結社をつくろうとしていたらしい(自力社として実現したのは明治17年、林没後のこと)。これに対し、福沢は「僻地にても結社の思し召しの由、至極の御事なるべし」と書く。地元の課題のみならず、日本国中朝野の事情、役人世界の有様、商売世界の模様、学者の考え、新聞社人の心意気、金儲けの機会などを「様々に談話論説のその間には、自ら名案これあるべく、つまるところ、人は相談、相い依りて知恵も進み又事業の融通も付くものなれば、結社の御企は如何にも美事」と助言する。

この書簡が書かれた9月7日は、構想が同窓会から交詢社のかたちに変化しつつあった時期であった。その中で変わらないものがあった。人々が集まり、相互に生き易くするという趣旨である。

処世を言いつつも、そのあり方が「様々に談話論説のその間には、自ら名案これあるべく」となっている点に関心をひかれる。問題解決をお上に頼まず、自分たちでなんとかしましょう、ということだろうか。その意味で、同志相互で世渡りを滑らかに、憂いを少なくしようという同窓会案と福沢周辺の人物たちによる地域結社構想の関連は興味深くみえてくる。2つが重なって交詢社構想に活かされたように思われるのである。

地域結社構想への眼差し

交詢社構想が生まれる時期、福沢の周辺には今述べた林金兵衛の結社と下総の小川武平による自立社の計画があった。

福沢に関心をもつ人なら長沼事件の指導者として小川をご存知の方も多いだろう。長沼事件について詳しく述べる余裕はないが、生活の糧のため伝統的に沼を利用してきた長沼村と、所有権を奪おうとする近隣の村々の争いが県庁も絡んだ紛争となった。福沢は助けを求めた小川に応じ、県庁宛の嘆願書の立案をはじめ協力を惜しまなかった。明治12年6月、小川が自立社という結社をつくった。長沼村と利害を同じくする近隣村の地域においてである。小川や林の結社計画共に、長沼事件という生活の糧の危機、地租改正反対運動による村の疲弊という切実な問題に発していた。それが彼らの結社を特徴づけた。

例えば自立社の社則では、社員同士が信義と交情を厚くし、思想を交換し知識を広めるといいつつも「小は各戸の動静」「大は各村の喜戚(喜びと心配―筆者注)」の間のものだという。交詢社設立後(明治17年)にできた自力社では、主たる目的は「節倹を主として時諭(世論)に溺れず、人民の幸福を謀り、基有株を維持し、元利共明治二十年までは決して動かさざるものとす」という限定的なものだった。

これに対し、明治12年に林のために福沢が立案した『倹約示談』の視野は大きい。福沢の示す倹約とは、舶来の奢侈品を買わないことであった。根拠は輸出入の不平均にある。それが極まると「我国民に稼ぎの路は塞がりて、遂には国の独立も覚束なし」という事態を招くからであった。福沢からすれば、地元に関心が留まったり、単なる倹約の維持という目的意識は物足りなく感じたかもしれない。そこで林宛の書簡で視野を広げるよう促したとも考えることができるだろう。この視点に立てば、交詢社は各地結社に集う人々の視野拡大を目的とする社会教育の性格を帯びたものとして考えられるだろう。

あるいは、福沢にとって地域に根ざす結社の誕生は自主、自立の精神の増加を示すものとして歓迎すべきものであったろう。自立的な集団といっても閉じたものだったとしたらどうか。極まれば暴発である。単に主体的というのならば暴発もまた主体性の発揮だからである。事実、春日井事件では一時天皇へ直訴しようとするまで事態が切迫したことがあった。個人でも集団でも、孤立した状態での主体性の強さほど危ういものはない。この視点からすると、福沢は閉鎖的になりやすい地域諸結社を結びつけるネットワークとして交詢社を考えたかもしれない。いずれにしても交詢社構想と地域結社を連動させようという関心が福沢にあったようである。

【出典】

『交詢雑誌』第1号

 

山室信一編『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』(ナダ書房、1987年)

福沢書簡
  『福沢諭吉書簡集』(岩波書店、2001-2003年)、第2巻、順に228頁、237頁、242頁、246-247頁
小幡書簡
  『交詢社百年史』、15-16頁および川崎勝「交詢社設立についての一考察」(『近代日本研究』22巻(慶応義塾福沢研究センター、2005年)、23頁より再引用。
『倹約示談』
  『福沢諭吉全集』(岩波書店、1958-1964年)、20巻、214-218頁
長沼事件および春日井事件
  石河幹明『福沢諭吉伝』(岩波書店、1932年)、第2巻
林金兵衛、春日井事件と福沢諭吉
  河内清『福沢諭吉の農民観――春日井郡地租改正反対運動』(日本経済評論社、1999年)
小川武平の自立社および林金兵衛、自力社
  林彰「自由民権から初期社会主義への系譜―地域・結社・女性」(『初期社会主義研究』11号、初期社会主義研究会、1998年)同「小川武平と自立社・交詢社」(『福沢手帖』102号、福沢諭吉協会、1999年)河内清「林金兵衛と小川武平―福沢諭吉との出会い、そして自力社・自立社―」 (『福沢手帖』104号、福沢諭吉協会、2000年)
   
   
 
 
 
   
       
      Copyright © 2005-2007 Keio University Press Inc. All rights reserved.