近代日本の中の交詢社  
 
       
         
   

第11回 交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)―

前回は馬場辰猪の留学経験と日本学生会について紹介を試みた。それらの経験が彼の社会観を築く礎となり、「共存同衆」という結社の理念に引継がれ、さらには交詢社の指針の一部を担ったように思われる。さて、前回に続いて、この交詢社設立の中心人物の一人である馬場と共存同衆を紹介しながら交詢社の成り立ちとその背景にある思想を探ってみたい。今回は馬場と共にロンドンで日本学生会を組織した小野梓が帰国したところから始まる。交詢社構想と設立者の一人である馬場を知るにあたって、共存同衆は重要な存在であると思われるからである。

★明治7年―日本学生会から共存同衆へ

自由党に続いてわが国で2番目に結党された立憲改進党の中心人物であり、早稲田大学の前身である東京専門学校の創立者として小野梓はその名を知られている。彼は馬場と同郷の高知県出身で、2歳年少であった。薬種問屋を営む町人の3男として生まれた。父は町人ながら半商半下士の準士格となった人物であり、地元宿毛の土佐勤王党に属していた人物であったという。小野は少年時代に地元の塾や学校で儒学と国学の素養を深めた後、明治2年に東京の昌平学校に学んで視野を広げた。同年、土佐藩庁から帰藩命令が下ったが、その理由に納得できなかった彼は士籍を返上して平民となる。そして明治4年から明治7年にかけてアメリカ、イギリスに留学し、ロンドンで馬場と出会うことになるのである。

明治7年5月に留学から帰国した小野梓が日本学生会を「わが国に移し」て結成した結社が共存同衆である。邦人同士の交際、親睦、そして学んだ知識の交換を目的に結合した日本学生会と趣旨を同じくする「同一社会」であった。(小野梓「共存同衆の歴史」)。このとき、小野は日本において結社を始めることの困難さに直面した。初めての集会に際して50名に案内状を出し、晩餐の準備をしていたが、来会者はたった7名にすぎなかった。この事実は結社の機能と重要性に日本人が気づいていないことを意味していた。小野ら中心人物たちの落胆は深かったが、それだけに彼らは日本人にとって結社が必要であることをますます確信したという。

★共存同衆と交詢社、社会科学協会

共存同衆の正確な趣旨については、明治11年9月に初めて開かれた年次集会の記録、『共存同衆第一年会始末』に詳しい。年会当日の演説や来会者姓名録、会計表など当日を再現した内容に加えて、「共存同衆条例」(社則―筆者注)、「共存同衆員姓名録」という付録がついている。その中の広瀬進一(太政官法制局官僚)の演説である「共存同衆第一年会の序」によると、「人の権理(ママ)」は同一平等であって、共存するには相い敬愛し合うことが重要であるという。人々が共存の道を尽せば、国の権理も全うできるはずであり、これには全国の人々も賛同するに違いない。しかしながら、物事には順序がある。今、道で行き交う人に突然「同志の人よ、私はあなたを敬愛する」と話しかけたところで相手には理解されず、変わり者扱いをされるだけであるから、互いに知識に熟し、面識を得て共存の道を究めるところから始めよう、というのが結社の趣旨であった。

この広瀬の演説をふまえて小野は次のように述べる(小野「共存同衆の歴史」)。対等な者同士の集まりであるから、「頭」はいない。もちろん役職者はいるが、投票によって選ばれる「共存同衆の小使」に過ぎない。ただ、自分たちを支配する「無形の統御者」がある。それが「共存同衆条例」(社則―筆者注)である。この「頭がいない」という点は交詢社に引継がれたと思われる要素である。また部門別の構成をとっていた点、様々な職業従事者によるメンバー構成なども共存同衆と交詢社に類似する特徴である。これらは、馬場がイギリスで参加経験を得た社会科学協会(前回参照)に遡ることのできる特徴であり、その意味で社会科学協会は交詢社の原点の一つといえるかもしれない。私的結社についての機能、社会的効果について福沢は理解し、実践にも移していたが、馬場が留学先の社会生活の中で具体的に学びとったものが福沢に伝えられ、交詢社にも活かされたように思われるのである。

共存同衆という組織には法制・教育・理財商業・衛生の4部門があり、毎月2回の常会および臨時会、また演説会(後に習演会、講談会と名を変えて呼ばれた)、そして後には年次集会(年会)が開催されるようになる。明治8年2月からは機関誌『共存雑誌』が発刊された。衆員(社員―筆者注)も次第に増加し、官吏、政客、実業家、仏教家、法律家、教育家、哲学者、経済学者など幅広い職業の人々を集め、彼らの関心に沿ったテーマで討論、演説が行われた。そして、これらの演説は『共存雑誌』に掲載された。

『共存雑誌』の形態は、今日の雑誌というよりも小冊子という表現が似合う。創刊から13号までが四六判(縦18.8cm、横12.7cm)より少し小さいサイズ(縦16 cm、横11.5cm)で、14号から最終号までがそれより少し大きめのサイズ(縦17 cm、横12cm)であった。大会記録や社則は別として、基本的には数編の論稿や演説筆記が掲載された簡素なものであった。創刊から14号までは大内青巒(おおうちせいらん:仏教思想家)が編集責任者となっており、14号以降は刊行主事として中村武雄、編集兼印刷が樋口載広となっている。印刷と売捌きについては13号までが報知社、14号から39号まで東京曙新聞社、40号から最終号までは朝陽社の名がある。定価は3銭5厘(後に4銭)で、当時では高価であったようである。創刊から8号までが、総部数1230部で1号平均154部、9号から12号までの総部数が2520部で1号平均630部であったと言われるが、正確な部数は判然としない。

明治8年には専用の会場を建築する議案が提出され、明治10年に公開演説の場と図書室を備えた会館(共存衆館)が完成した。現在の銀座8丁目5番地8号「かわばたビル」の位置にあった2階建ての西洋館を改装したもので、2階が講堂、1階が図書室となっていたという。敷地が12坪と、広い建物ではなかったが、同時期に存在した啓蒙学術団体の明六社にはない設備であった。こうして常会、演説会を通じた交際や雑誌の発行での人々の啓蒙を通じて共存同衆の社員数は少しずつ増加していたようである。創立当初は7名しか集まらなかったのが、2ヵ月後には19名となり、1年後には30人強までになっていた。

★明治11年―馬場の帰国、共存同衆第一年会へ

だが、『共存雑誌』は明治9年8月の13号まで刊行された後、明治11年7月まで約2年半の休刊に入る。明治8年の新聞紙条例、讒謗律とその追加条例という政府の言論統制の影響によるものであった。雑誌が休刊された時期、共存同衆の活動が低迷していたという説があるが、はっきりしない。『共存雑誌』休刊後も共存衆館の開館準備が着々と進んでいたこと、同じく明治10年にはそれまで為されてきた社則の修正を反映した「改正共存同衆条例」が出され、「常会並びに臨時会則」「習演会則」が付加されたことなどからみても、結社としての生命力は維持されていたようにもみえる。いずれが正しいのか判断する材料に乏しいが、少なくとも明治11年5月に帰国した馬場の目には当時の共存同衆が低迷しているように映ったようである。彼の自伝には5月の帰国後「すべてにおいて積極性に欠けていた共存同衆に公開講演を行うようにさせた」という記述があるからである。公開講演に加えて、同年9月に共存同衆初めての年次集会が開かれたことも、彼の帰国によって共存同衆に新たな活力が生まれたことを示すものだろう。次回は共存同衆第一年会での馬場の演説を取り上げたい。そこに共存同衆、そして交詢社へと続いてゆく彼の問題関心をみてとることができるように思われるからである。

【参考文献】

・小野梓「共存同衆の歴史」(『共存同衆年会始末』、山室信一編集『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』、ナダ書房、1987年および『小野梓全集』第5巻、早稲田大学大学史料編集所、1982年)

・「共存同衆条例」(山室信一編集『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』、ナダ書房、1987年)、「改正共存同衆条例」(『小野梓全集』第5巻、早稲田大学大学史料編集所、1982年)、「共存同衆並びに諸会則」(『共存同衆年会始末』、山室信一編集『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』、ナダ書房、1987年)

・「年会の紀事」(『共存同衆年会始末』、山室信一編集『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』、ナダ書房、1987年)
・広瀬進一「共存同衆第一年会の序」(『共存同衆年会始末』、山室信一編集『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』、ナダ書房、1987年)
・澤大洋『共存同衆の生成』(青山社、1995年)
・西村眞次『小野梓伝』(冨山書房、1935年)
・野口孝一『銀座煉瓦街と首都民権』、悠思社、1992年)

・萩原延壽『馬場辰猪』(『萩原延壽集1 馬場辰猪』、朝日新聞社、2007年)

・馬場辰猪「The Life of Tatui Baba」『馬場辰猪全集』第3巻、岩波書店、1988年

・広瀬進一「共存同衆第一年会の序」(『共存同衆年会始末』、山室信一編集『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』、ナダ書房、1987年)
・山室信一編集『マイクロフィルム版 明治期学術・言論雑誌集成』別冊、ナダ 書房、1987年
 
   
 
 
 
   
       
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