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オリジナル連載 (2006年6月27日掲載)

時事新報史

第5回:官民調和論とは?(1)〜「波」への関心〜 
 

























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 『時事』の論調として、当初何とも評判の悪い「官民調和論」。では、それはいかなる主張で、これを唱える『時事』の真意はどこにあったのであろうか?  


 他紙がいずれも政党機関紙の時代、『時事』は、「独立不羈」を唱え、その立場から「国権の皇張」を唯一の目的と宣言したことはすでに述べた。それではなぜ「独立不羈」か。


 ある政党に与(くみ)していたとしたら、その新聞の政治論は党を利するための思惑があると見透かされてしまう。たとえそうではなくても、そう思われるのが世の常。純粋に伝えたいメッセージも差し引いて読まれてしまい、うがった見方をされてしまう。常に読者から信頼され、耳を傾けてもらうための担保として最初から提示された立場、それが「独立不羈」であった。この立場を、今では新聞社のモットーの常套句となっている「不偏不党」(ふへんふとう)という言葉で呼び始めるのはもう少し後のことで、『時事』創刊当時には「無偏無党」などとも表現されていた。

 この「独立不羈」の基礎の上に唱えられた政治論が、「官民調和論」であった。これは文字通り、「官」と「民」の調和を説く主張である。いわゆる御用新聞が代弁する官の論理と、民権新聞の民権論は、当然互いに水と油の関係であり、官の主張は民にとって攻撃の対象にしかなり得ず、民の主張は官にとって警戒の対象でしかない。そこで、お互いが100の自己主張をすれば、ゼロの結果しか生まれない。これは労力と時間の大いなる無駄である。互いに受け入れられる点は必ずあり、それを1でも2でも見出して歩を確実に進めることが国権の皇張のために何よりも重要である。そのために両者の利害の調整役を買って出ようというのが官民調和論の基本的な考え方であった。そして、『時事』は独立不羈を宣言した自分たちがこの役割を負わねばならないと自認し、読者に耳を傾けてもらうため、日々の世論の動向や空気を読み続ける宿命を自主的に背負うことになった。


 その結果、『時事』は、平たくいえば「あまのじゃく」にならざるを得ない。世論が民に過度に偏って均衡を失していると感じるならば官の立場を強く代弁し、逆に官偏重になってそれが誤りであるならば民の声を高らかに主張する。しかも、多くの読者に読んでもらわねば意味がないから、今風の体裁を取って方便を用い、あるいは官民それぞれに相手のことを説明し、時に読者の注意を引こうと一見強烈な激論を吐く。硬軟取り混ぜて、その先に世論の均衡を導こうとする、それが官民調和の具体的な方策であった。


 なぜそこまでして官民調和が必要なのか。なぜ国権を張らねばならないのか。それは、福沢の西洋諸国に対する強い警戒心と関係がある。国内で官民の日本人同士が争っている間にも、弱肉強食の国際政治の世界では、西洋諸国の東アジア進出が日々広がっている。官民における、解決できる対立はさっさと解消して国内政治を速やかに発展させ、官民一致して対外問題へ、より大きな力を注げば、日本は独立を保って西洋諸国に伍することができるはずだ。それが、福沢の目指す「国権の皇張」の意味である。官民調和論が、しばしば「内安外競」という言葉にも置き換えられたのは、そのためであった。


 自由民権運動華やかなりしこの頃、福沢が世の民権家の主張を指して「駄民権」(だみんけん)といったことがあるのは有名だ。流行の最先端である民権論を唱えることは、たやすい。言いたいことを、言いたい時に、言いたいように表現するのは簡単である。そして、直球の正論や、過激な政府批判など、刺激的な政治論を書くほど新聞もよく売れるし、後世の歴史家にも、評価されやすい。現に、福沢と同時代の民権家には、美しい理想を悲壮な覚悟で語ったイメージが強いのではなかろうか?民権家のそういった発言が、自分の思想の到達度を世に主張するためのものであるならば、それでよい。自分はここまで考えているぞ、と。しかし、福沢の『時事』での政治論における官民調和的言説は、主張すること自体が目的でない。新聞はあくまで「道具」であって、その言説は「方便」であり、世の中が彼自身の信ずる方向に変わることが目的なのである。


 実現しない理想論や、誰も取り合わない空論に熱中している国民を横目に、国外からの危機に手をこまねいているわけにはいかない。実社会が信ずる方向に進むことを本気で願うのであれば、直球を投げるのではなく、計算高く、時に「ミーハー」であったり、嫌われ役にさえ甘んじなければならない。福沢の関心は、どのような球を投げるかではなく、球が引き起こす「波」に注がれていた。それは、正論を吐く以上の孤独との戦いを意味する。


 少し後のことになるが、福沢は新聞を業とすることの空しさを自嘲気味に、かつどぎつい表現で、次のようにロンドン留学中の娘婿に書き送ったことがある。


「政治の話はしきりにして、新聞紙も忙しき次第、実に小児の戯れ、馬鹿馬鹿しきことなれども、馬鹿者と雑居すれば、ひとり悟りを開くわけにも参らず、時事新報にも毎度つまらぬことを記し候ことなり。」(書簡1536)


 ひとりだけ悟りを開いて、正論を吐いたり、高見の見物を決め込んでいる場合ではない。世を導くためには、新聞を使っていかなる論法をも試みるほかない。そして、それは自分がやらなければならない。しかも、「馬鹿馬鹿し」い「つまらぬこと」を新聞に書いているなどとは、口が裂けても世間に向かっては、いえない。そのような覚悟と孤独の中で「官民調和論」は唱えられていくのである。従って前回紹介したような悪評であれ、評判という波が立つことは福沢の本望だったといえるかもしれない。


 やれやれ、今回はちっとも証拠が出てこないじゃないか。そう思った読者諸賢もいらっしゃるだろう。これから長い連載で、順次、『時事』の主張を追っていくのだから、そう慌てないでいただきたい。この考え方を頭の片隅にちょっと置いておいていただきたいのである。しかし、それにしても論拠が何一つ示されていないといわれれば、まことにごもっとも。そこで、次回は、ちょっと官民調和論の具体例をつまみ食いしておくこととしよう。


資料
書簡番号1536、明治23年8月30日付清岡邦之助宛、『書簡集』6巻。


 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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