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ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2008年8月20日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第30回:朝吹英二とは…(その1)
 

目次一覧


前回 第29回
慶應義塾出版社への改組

次回 第31回
朝吹英二とは…。(その2)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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今回は、本連載の第18回(慶應義塾出版局)と第29回(慶應義塾出版社大阪出張所)で顔を出した朝吹英二(あさぶき えいじ)という人物について、触れてみよう。

朝吹英二

朝吹は、嘉永2(1849)年に豊前国下毛郡宮園村(現 大分県中津市耶馬溪町)に生まれた。生家は17世紀の初頭から代々庄屋を勤める家柄であった。10代にして米相場・豆相場・材木売買に手を出したり、代官の下で農兵の分隊長を勤めたりする一方で、日田の咸 宜園(かんぎえん)や中津の渡辺塾・白石塾に学んだ。この渡辺塾で出会ったのが増田宋太郎である。増田は過激な攘夷思想の持ち主で、親しい間柄の朝吹も彼の感化を大いに受けることになった。実は、この増田は福沢にとって又従弟(またいとこ)にあたる人物で、彼については福沢が『福翁自伝』の中で次のように触れている。

…この宋さん〔増田宋太郎のこと〕が胸に一物(いちもつ)、恐ろしいことをたくらんでいて、そのニコニコ優しい顔をして私方に出入(しゅつにゅう)したのは全く探偵のためであったという。さて探偵も届いたか、いよいよ今夜は福沢を片付けるというので、忍び忍びに動静(ヨウス)を窺いに来た。田舎(いなか)のことで外回りの囲いもなければ戸締りもない。ところが丁度その夜は私のところに客があって、その客は服部(はっとり)五郎兵衛という私の先進先生、至極磊落(らいらく)な人で、主客相対して酒を飲みながら談論(ハナシ)は尽きぬ。その間、宋太郎は外に立っていたが、十二時になっても寝そうにもしない、一時になっても寝そうにもしない、何時(いつ)までも二人差し向かいで飲んで話をしているので、余儀なくおやめになったという。これは私が大酒(たいしゅ)夜更(よふか)しの功名ではない僥倖(ぎょうこう)である。

増田宗太郎

この増田は後に明治10(1877)年の西南戦争に西郷軍として参戦し、最後は鹿児島の城山で命を落とすことになる。増田による福沢暗殺未遂事件は、明治3(1870)年のことであったが、その一方で増田からの影響を受けた朝吹もまた、福沢に対する反感を次第に募らせていった。
 この話の続きは、また次回に…。

【写真1】 朝吹英二 (慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真2】 増田宋太郎 (慶應義塾福沢研究センター蔵)
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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